づれにしても、人間の精神が愚弄《ぐろう》されてゐるやうな憂欝が頭をもたげて来る。
 私は、手に入れたばかりの貨幣を哀しく思ひ、出来るだけ早く振り捨てたくなる。そして、それは意義のある使ひ方に適当してゐない、およそ下らない浪費にこそその使途を運命づけられてゐるやうなものだ。
 私の暮れの仕事は、かうしてはじめから蹉跌《さてつ》して了つた。私は、甚しく疲労|困憊《こんぱい》してゐるにも拘らず、最も不健康な消費面に沈溺して、その間中、敢《あ》へて他事を顧なかつた。よくも、肉体が持ちこたへられたものだと、あとで、不思議になつた位であるが、やがて寝呆け面で、れいによつて、浅草公園に近い木賃宿にぼそんとしてゐる自分を見出したのは、これほど私を敗頽《はいたい》させた不出来な仕事が終つてから、かなりの時間が経つてゐた。それまで、どこを転々として、何をしてゐたかと、朦朧《もうろう》として頭を捻《ひね》つて跡を辿ると、恥づべき所業だけしか手繰り得ないのもいつもの通りだ。我ながらいい気なものだし、腹が立つよりは、莫迦莫迦しすぎて、軽蔑したくなる。
 しかも、そんな場所で、徒らに帰らぬ悔恨に耽つてゐる間に、またしても時間は過ぎて行くばかりだ。折角予定してあつた期日のある仕事は、次から次へと手もつけずに終つて了ふ。焦躁に駆り立てられながら、私はなすこともなく、じつとしてゐるのであつた。最初の踏み出しを蹴つまづいて了つたとは云ふものの、出来るだけ早く姿勢を取り直せば、最小の犠牲で何とかすむのだ。さうは理窟で分つてゐるのに、私は誇張的に、もう駄目だ、もうどうすることも出来ないと、うたふやうに自分に云ひ聞かせたりする。そして、一日おくれればおくれるだけ、倍加的に立ち直りにくくなるのは決つてゐるが、それもある限度があつて、遂に、今となつては、いくら仕事をする気になつてもおつつかないと云ふ瞬間が来る。私はそれを待つてゐたかのやうに、やつと寂しい落ちつきを得て、ぐつたりと疲れて了ふ。仕事を渡さねばならない相手の怒つた表情や、家族の者たちの当惑した顔が浮んで来て、私を責めるが、私は素知らぬ風を装つて、しかし、気弱くそつぽを向いてゐる。

 知つた人に逢ふのがいやで、……そのくせ、偶然、誰かに出会つたとすれば、それこそ人なつつこく、永い間の孤独な沈黙から解放され、久しぶりに友だちと快談する悦びに駆られて、何やかやと一度にしやべりまくることだらうし、年の暮れで気忙しくしてゐる人をいつまでも掴へてはなさないにちがひないが、……とにかく、私はあまり知人たちを見かけない千住《せんじゆ》や三河島、あるひは尾久《をぐ》から板橋にかけて、都会の汚れた裾廻しを別に要事もなく仔細ありげに歩き廻つてゐた。かうして、短い冬の日が暮れると、こんどは自分の家へ帰るやうな顔つきをして、夕闇の中に浮浪者のうようよとしてゐる浅草田中町へ戻つて来るのであつた。安い飯屋や泡盛焼酎なぞを飲ませる店が満員でやかましく、豚や馬の臓物を煮込んだり焼いたりする臭ひが人間たちの体臭と入りまじつて、町の辻には土色をしたのや煉瓦色をした女たちが、用心棒をうしろに隠して立つてゐる。
 私も、使ひ果してほんの小銭ばかりになつたうちから、飯を食つたり酒にしたりするのだ。
 宿では、三畳ばかりのところに二人乃至三人づつ、相部屋《あひべや》するので、私は随分と色んな種類の、見知らぬ男たちと枕をならべて臥《ね》たものだ。渡りの土工、家出して来たり、蠣殻町《かきがらちやう》あたりで持金をすつて了つた田舎もの、てきや、流しの遊芸人、あるひは明かに泥棒らしいのとも一しよになつた。朝眼がさめると、昨夜は独りで床についたのに、いつの間にか、両端を人相の兇悪な大の男に挟まれてゐることもあつた。行きずりの一夜の宿を求める男たちと、殆ど夜具もすれすれに身体を近づけあつて眠り、お互ひの身の上については何も知らずに、そのまま別れて二度と逢へない場合もあれば、長逗留してすつかり顔馴染になり、半分以上は嘘と法螺《ほら》で作りあげられた昔ばなしを聞かされる例も多い。と云ふのは、かうしたどん底に生きてゐる彼らは、きまつて、はじめからこんなところに住むやうに生れたのではないと云ひたがつてゐるからだ。良い家に成長して、かつては栄燿《ええう》贅沢をしたと云ふ記憶を、まるできのふのことみたいに鮮かに描くことが出来るのであつた。少しは、本当のもあれば、他人の話から盗んで潤色したのもある。どちらにしても、彼らは零落してこのさまに到つたのだと云ふことで、今日の惨めさを忘れたり、蔽ひ隠さうとするあまい虚栄心を多分に持ち合せてゐる。真偽に拘らず、それを聞かされてゐて、こちらから進んで合槌を打つたり、出鱈目《でたらめ》な点にも感心してみせてやりたいのと、どうにも憎々しくて、折角
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