は三年間とも、出席日数不足で落第しかけてゐる。
 私の日常をよく知つてゐる人は、存外私が優等生みたいに真面目で精励なのに驚くのである。極めて事務的に色々な面の仕事を処理して行く才能すらあるのを認めざるを得ないだらう。一般の働き人と同じやうに、早暁に起きて家業に身を入れるし、規則正しく生活の軌道に乗つて行動して、大好きな酒さへ節するだけではなく、ぴたりと断つてゐて何らの苦痛もなしにすませることが出来る。不断はまことに素直な市井人《しせいじん》として、積極的な現世主義者として、また数多い家族の善良な扶養者としてあけくれ送つてゐる。
 それが、ふとしたことから、――きつかけは、何でもいい、ほんの些細なことも口実になり得るからである、――さうした規律が僅かでも乱れ、軌道から少しでも逸れようものなら、すでに幾度も使つた言葉だが、もう[#「もう」に傍点]制御出来なくなつて了ふ。日頃、ひそかに隠してゐる放浪癖も手伝ふので、仕事も家族のことも徹底的に怠け、気持のおもむくままに振舞つて、自分でもその恣意《しい》の行きつく先を前以て知り得ない。何とかして、その荒んだ方向を切りかへよう、平常の状態へ調整しようとしても、時機が来ないうちは、手の施しやうがないのだ。いや、実はそんな風に努力してゐると云ふのも自分への見せかけだけで、どうにでもなれと、すつかり盲目的な勢ひに委せてゐるのだらう。退屈な日々が、本当は意味と内容の多い暮しである事実から眼を蔽つて、ああ、もう沢山だ、うんざりしたと嘯《うそぶ》いたり、何も彼もすべてを投げすてたい、それらの煩はしいものから逃げ去りたいと、念じたりしてゐる。時には、一切|放擲《ほうてき》、生命さへも別に執着もなくなつて、誰かに簡単にくれてやりたい状態にさへなつてゐる。現実的な望みなぞ、嘘みたいにはかなく消えて、雲や水に同化したいと云ふ及びもつかない野心を起すこともある。
 かうして、幾日でも当然の生活から遠ざかり、人生の時間をむだ使ひして了つて、悔ゆるところがない。そして、その罰で、蘇苔《こけ》みたいに皮膚の上に厚くなる垢のやうなものが、心の底にも重つ苦しくたまつて来るのであるが、普通なら耐へられないところを、無神経を装つて鈍感でゐる。
 仕事や家族、交友、その他の現実関係から脱け出して、身心ともに放逸させてゐる間は、ある場合は、近県の寂れた宿場町や、利根川、多摩川、相模川なぞの流れに沿うて、軽々と気まぐれな歩き方をしてゐる。この方は、まだしも健康なので、もう一つの場合は、大隠《たいいん》は市にかくれるなぞとの誰かの口真似をして、盛り場から盛り場へさまよつた後に、木賃宿町の一隅なぞに、自分を見出すのだ。それらの渡り歩きの是非はさておいて、さう云ふことに生活圏内からいよいよ離れて、無為に魂をすりつぶしてゐるのは、何としても、下らない唾棄すべきわざだ。殊に、その浪々の道すぢを自分に言訳するために、後日の零落《れいらく》に備へての足ならし、身鍛へだなぞと、感傷的に思ひ込んでゐることに於てをや、と云ふべきであらう。
 だが、今一言、……それにも拘らず、私には仕方のない事実なのだ。

 ある年の暮れ、……いや、昨年の十二月の末にも、私はかうした発作に似た心境に落ち込んだことがある。それまでは大晦日《おほみそか》に到る日数を精確に計算して考慮に入れた上、仕事の分量を定め営々として働いてゐた。私は沢山の家族に楽しい正月をさせてやらねばならなかつた。私は、多人数を背負《しよ》つて歩くのが好きであつた。そんなものなしにすませられるなら、それに越したことはないのだが、どうせ逃れられない運命とすれば、おぶさつて来るものをいくらでも引受けようと決心してゐる方が、悲壮でもあり、その満足感からはげみがついた。
 仕事の出は、うまく滑り出したので、非常に悦んでゐた。と、中途から、調子が狂つて、意《おも》ひに委せなくなり、次第に私は渋りはじめた。さうなつては、つづけてゐるのに苦痛だけが残つて、大袈裟な絶望感さへ伴つて来る。永々と面白くもない時を費して、最後にやつと形をなすのは、気に入らないなぞと云う単純な失敗の不快さに終らない。歪《いび》つな仕事の結果は、私の全身心ともに醜くひん曲げて了ふ。私は、自分自身の比重がとれずによろめいて、それを情なく意識するので、よけい足許が危つかしくなるのだ。胸の中では、無数の瓦礫《ぐわれき》がつまつたやうに、索寞として音を立てて、あちらへ傾いたりこちらへ転がつたりする。次の仕事にかかるには、あまりすべてが雑然としすぎてゐる。
 仕事に対して、私は当然の報酬を受取るのだが、かうした状態では、何か不正を行つて得た悪銭の感じがする。反対にまた、この苦悩の償《つぐな》ひとして払はれるには、安すぎるとの腹立しさもないでもない。い
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