まちがひないところを語つてゐるのに、意地悪くはぐらかして了ひたい男もある。物語も語り手が根本で、そのやうに色々と印象を変へるらしかつた。……
 その年の暮れにも、私は二人の男と相部屋になつて、種々雑多な話を幾度も聞かされた。まだ私位の年配の男は彼の云方によれば「高等乞食」で、もう一人の脊の低い、狐を使つておみくじを売つて廻る老人は、伏見神社の神官をくづれて来たと云つて、位階さへあるのだと自慢してゐた。
 大晦日は近かつた。私は自分の家へ引きあげねばならないと重つ苦しい義務を感じつつ、そして、けふこそは帰らうと朝毎に決心し、夜になると、もう晩《おそ》いから、あすこそは早くなぞと、だらしなく考へが変つて、ぐづぐづしてゐた。これでは涯《はて》しない話で、結局は三十一日も来て、除夜の鐘でも聞いてからになるのではないかと危ぶまれた。いや、心の裏はさうと決めかかつてゐたのかも知れない。
 所持金は、昨夜どやせん[#「どやせん」に傍点]を支払つて了ふと、皆無になつてゐた。けふは仕方がないから、友だちの家へでも行つて借金でもするとしようと肚《はら》を決めてゐたが、薄い蒲団ながら、床から出るのが寒いので、首も手足もちぢめ、隙間風を恐れてじつと身動きもしないでゐた。
 朝早く出かけて行く他の部屋は、しいんと静かで、そろそろ宿の婆さんが掃除にかかる様子であつた。それなのに、この部屋だけは、誰も朝から用事がないので起きようとはしなかつた。
 またうつらうつら仮睡が襲つて来る。私はその快《こころよ》さに身を委《まか》せてゐたが、ぐうつと腹がなつたのには、自分で驚いて、眼をさました。腹がへつて来たのだ。苦笑すると、また、こんどはもつと大きく鳴つた。
 ――飢ゑか、飢ゑ来りなば死遠からじか。
 そんな莫迦気たことをぼんやりした頭で嘯《うそぶ》いてゐるのも、まだ十分眠りから、自分を取り戻してゐないからであつた。
 ――ハングリ、ハンガー、ハンガリアン、……ハンガリアンて言葉はないかな、待て待て、ハンガリアン・ラプソディと云ふではないか、飢ゑたるものの狂ひ歌と云ふところかな。
「――どうしたんだね、いやに、腹が鳴つてゐるぢやないか。こちらまで響いて来るが、……腹工合でも悪いんぢやないかね」
 突然、隣りの「高等乞食」が声をかけたので、私ははつとして、はつきりと眼をさました。
 この男の横柄《わうへい》な口癖を、私はあまり好いてゐなかつたので、返事もしずに、黙つて寝た振りを続けてゐた。
「――ははは、……腹が空いてゐるんぢやないかね、……我輩がひとつ、欠食児童救済事業を起すかね」
 と、つづけて、「高等乞食」は機嫌よく云ふのであつた。彼が上機嫌なのは、きのふで「正月の用意」が出来たからであつた。
 これも、嘘か本当か、かなり疑はしいが、彼は昭和のはじめまで生きてゐた有名な政党政治家の息子だと自称してゐた。その父親の死後、莫大な借財に苦しめられて、学校も中途でよさなければならなかつた彼は、すつかり荒《すさ》んで、不良少年になつたりした揚句《あげく》、ここまで落ちて来たと云ふ。昔、親父の世話になつたやつらで、時めいてゐたのも、難渋してゐる一家に報恩の手を差しのべるどころか、却つて、少しばかりの貸し金をうるさく取り立てようとしたりした。病身であつた母親は、その真唯中に死んで了ひ、唯一人の姉は今病んでゐるとのことだ。
「――我輩の女房も、やはり病身なので、別居してゐるが、……いや、二人に療養費を送金してやらねばならないので、高等乞食もなかなか骨が折れるよ」
 それが政治家めいた笑ひ方であらう、彼は稍々《やや》細い身体を反り身になつて豪放に笑ふのだが、途中で咳《せ》いて、苦しさうに身体を曲げたりした。姉や女房の病気が、彼の表現によれば、金を食ふ肺結核ださうだが、彼も明かに胸をやられてゐた。咳をするのはそのせゐで、しかし、彼はそれをも気取るためのきつかけにしてゐた。
 高等乞食と云ふのは、死んだ父親の縁故のある政党員のみならず、あらゆる政治家、有名な官吏、実業家、俳優あるひは会社を訪れて、多少の無心をするのであつた。中には定期的にくれるやうになつてゐる位、顔を売つたと自慢してゐるが、
「――なアに、度々顔を出しては、何のかのと出鱈目の口実で小うるさく小遣銭をせびるんだが、……うるさいと感じさせるのが、こちらの附け目でね、少しやつて早く帰して了はうと、さう思はせるところが、こつ[#「こつ」に傍点]なんだよ」
 と、私に述懐したことがある。そして、
「――暴力や脅喝《けふかつ》はいかんよ、絶対にいかん、……それは方面がちがふんだし、警察がうるさいからね、……個人で仕事をするなら、我輩の、柔よく剛を制す流でなくては、……」
 力も度胸もなささうな彼の、もつともな云分であつた。
 
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