別に大して眼新しい方法でもなささうだが、彼は自信たつぷりで実行してゐた。しかし、それで自分も毎日を食つて行き、女房と姉にどれほどの額でもあれ、療養費の仕送りをしてゐるとすれば、自慢していいのかも知れない。
 身装《みなり》が資本だからと、彼は黒の背広に白のワイシャツ、縞ズボンを、ちやんとはいて出かけるのが常であつた。大言壮語する風体《ふうてい》に似ず、女性的な面も多分にあつて、自分でその洋服の手入れもすれば、肌着なぞの洗濯もしよつちゆうしていつも小綺麗なものを身体につけてゐた。その身体も、この寒空に裸になつては、ごしごし拭いてばかりゐた。叮嚀に剃刀《かみそり》のあてられた顔も、石鹸でよく洗ふらしく、痩せた頬が不自然な赤味を帯びて、つるつる光つてゐた。……
 私がやつと湿つぽい蒲団から首を出すと、「高等乞食」は、その顴骨《くわんこつ》が突出た顔を私とおみくじ屋とへかはるがはる向けて、
「――どうだね、けふは、我輩が二人に飯をおごらう、幸ひ、軍資金はたつぷりあるから、安心してついて来給へ」
 彼はきのふ、女房と姉に、新年の小遣をも加へた今月の送金を終つたのだ。その残りが十分あるので、私たちに御馳走しようと云ふのであらう。
「――そら、ほんまに結構な、ありがたいこつちやア、なア、あんた、……」
 と、あちらの障子の方に臥《ね》てゐた老人はいかにもほくほくとして、私に呼びかけた。
「――折角、あない云うてくれはるんやさかい、一しよに御馳走にならうやおまへんか」
「――ははは、さうし給へ、腹をならしてるなぞ、見つともない、……出かける前に、ちよつと待つてくれ給へ」
「高等乞食」は、蒲団から飛び出ると、れいによつて洗面所へ身体を拭きに行つた。
「――あの方、お若いのに、なかなかよう出来たお人だすなア、――遠いところにゐる病人にちやんとする云うても、なかなか出来たこつちやおまへん、……偉いもんや」
 狐つかひのおみくじ屋は、感心したやうに、丸い短い首を振つた。それから、声をひそめて、
「――あの調子やと、もう、お金もたんと貯めてやはりますで、……」
 やがて、噂をされてゐる「高等乞食」は、えいつえいつと、頼りなく細い手足を小学生の体操みたいに屈伸させながら、戻つて来て、彼の正装に着かへるのだつた。
 ズボンは正しく折目をつけて、蒲団の下に敷いてある。それを取り出して、蒲団は、私の足もとを踏み越えて、小さな窓に乾すのであつた。
「――曇つてゐるな、雪空だ、これでは日光消毒にならんかね」
 と、独り言を云つて、
「――どら、出かけようぢやないか、……おい、天下の怠け者、起き給へ」
 彼は私の蒲団を剥ぎとつた。
「――なんだ、こんな関取みたいないい身体をしてをつて、働きに出ようともせん、……我輩がひとつ、どこか職を世話してやらうかね、……それにも及ばんかな、景気のいい軍需品工場なら、どこだつて、歓迎するだらう、……」
 私はにやにや笑つていた。
 老人は障子の外の、廊下の片隅に置いてある檻《をり》の狐に合掌して何か云つてゐた。よく聞くと、
「――ほんなら、これから、ちよつと外へやらして貰ひます、お狐さま、……暫く、御辛抱下さりませ」
 薄暗い中に、狐の光る眼が見えた。特有のたまらない悪臭が、廊下に一ぱい流れてゐた。
「――さア、出かけよう、君は、何が食ひたい、……さうだね、あまり贅沢なものはいかん、口がおごつて、癖になるからね、お稲荷さん、君は酒好きだから、先づ一ぱいはじめようか」
 元気よくしやべり立てる「高等乞食」のうしろから、我々はついて行つた。
 宿の主人は、帳場で、宿帳の整理をしてゐたが、老眼鏡越しに、珍しく揃つて出て行く三人を不審さうに眺めてゐた。

 私は相変らず、にやにや笑つてゐた。さうして、何かごまかしてゐる表情より、仕方がなかつた。
 雪もよひの空は、暗澹として垂れさがつてゐた。人々はその下で、いかにも師走《しはす》らしく、動きまはつてゐるのだ。家々の表口には、すでに新春の飾物さへ見える。私は、ああ正月が来るのか、なぞとよそよそしく呟いて、沢山の人間にめでたい年を迎へさせねばならないのを、忘れてゐたかのように装つてみる。
 何々食堂とか何々酒場とか云ふ、田舎訛《ゐなかなま》りの小女が註文された品を甲高《かんだか》い声で叫ぶ大衆的な店を飲み歩いて、三人は相当に酔払つてゐた。午前中からの、それもあまり性《たち》のよくない酒は、頭の皮と脳の間にたまつて、不快な限りであつた。狐つかひの老人は、悪酔ひして青くなり、足と腰をとられて椅子から倒れさうになつてゐるのに、尚も意地汚く口を尖らせて酒を吸ひ込むやうにしながら、盃を手離さなかつた。「高等乞食」に、見えすいたお世辞を使ひ、不自由さうな歯で、あれこれと食ひ物を云つては、もぐもぐ噛んでゐた
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