大凶の籤
武田麟太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)豪奢《ごうしや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一切|放擲《ほうてき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)汗や垢のしみ[#「しみ」に傍点]
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どんな粗末なものでも、仕立下しの着物で町を歩いてゐて、時ならぬ雨に出逢ふ位、はかないばかり憂欝なものはない。いや、私の神経質は、ちよつと汗をかくのにも、ざらざらと砂埃を含んだ風に吹きつけられるのにも、あるひはまた乗物や他家の座席の不潔さにも、やり切れない嫌悪の情を起させるほどである。ある夏の日、私は浅草に近い貧民窟で、――そこで知合になつた男について、物語らうとするのがこの小説であるが、――狭つ苦しい裏町のトタン屋根の傾いた一軒で、半裸体の男が、どう見ても芸者の出の着物らしい華美で豪奢《ごうしや》なものを縫つてゐるのを目撃してぞつとしたことがある。その座敷着の品質や柄模様を詳しく述べるだけ私に和服の知識がないのは残念だが、とにかく、裾を引いた艶やかな女の肢体や脂粉の香さへも一瞬に聯想される不思議な色気を持つた仕立物が、恐らく指先から流れる汗も褐色ではないかと考へられるやうな垢黒い男の手にかかり、べとべと光つてゐるその股や腕に無造作に置かれてゐた。私は、ある一種の皮肉な気持よりも、たまらない感じに襲はれて、視線を逸《そ》らしたものだ。自分の知らない間に、かうしてどれだけ他人の汗や垢のしみ[#「しみ」に傍点]をつけられてゐるのか分らないのだから、自分だけが潔癖がつてゐても仕方なからうと思ふこともあるが、それでもやはり、着はじめた当座は、一切の汚れを避けたいと、誇張して云へば、小心にも戦々兢々としてゐる。
だが、それが、……それもほんのはじめ[#「はじめ」に傍点]のうちだけである。暫く着古して、自然と垢づいて来ると、もうかまつたものではない。雨に濡れようと、泥水がはねかからうと、どす黒く足跡のついた畳の上へ、そのままごろ寝しても、まるで気に病まなくなるのだ。自分でもをかしい位の変化である。
また、無類の入浴好きで、場合によつては日に二度も三度も、用足しの途中、行き当りばつたりに馴染《なじみ》のない銭湯に飛び込む癖さへある私だが、そして、その度毎に莫迦《ばか》叮嚀に洗ひ浄めねばやまぬ私にも
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