現代詩
武田麟太郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)解熱剤を服《の》んで
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)益々|蜻蛉《とんぼ》かきりぎりすみたいに
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、底本のページと行数)
(例)うとうと[#「うとうと」に傍点]して
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とにかく自分はひどく疲れてゐる。朝から数度にわたつて解熱剤を服《の》んで見るが、熱は少しも下らない。もつとも、この熱さましの頓服と云ふのは、銭惜しみする妻が近くの薬局で調合させた得態《えたい》の知れぬ安物なので、効き目なぞ怪しいのだらう。よけい頭ががんがんと痛むし、咽喉《のど》がつまつたやうでいくら咳《せ》いても痰が容易に切れない。不愉快である。さきほど、やつとうとうと[#「うとうと」に傍点]して眠りかけると母親が部屋に入つて来て起されて了つた。彼女は気兼ねして足音忍ばせ階段を昇つて来たのだが、安普請では自分でもびつくりするほどぎしぎしと軋《きし》むのだ。隣家の階段を歩く音さへ、こちらのことのやうに伝はるのだから仕方がない。物音を立てなくとも、極めて神経過敏な自分は、誰か入つて来ればその気配《けはひ》ですぐに眼ざめて了ふ。眼をあけると、母親の小さな顔が恐しいばかりに真剣な表情で真近くのぞき込んでゐるのだ。自分はたちまち不機嫌さうに眉をしかめて、ぐつしよりと湯気を立ててゐる胸の汗を拭いた。
「――いけないか、どうだらう、お医者に診《み》て貰つたら」
自分は黙つて首を振つた。
「――かつ子にお医者を呼ぶやうに云つたんだが、亭主が病気なのにいつもより早く出て了ふし、……」
自分には老母の云はうとする意味は最初からよく分つてゐた。妻を悪く云ふために、自分の病気を利用してゐるまでだ。
「――出て行つて働いて貰はなくちや、家族一同が食ひあげる」
云はなくていいことを自分は嘯《うそぶ》いた。
「――そりやさうだが、お前、肺病らしいと云ふぢやないか」
「――誰がそんなことを云つた」
「――彦造が心配してをつた、学生時代にはぶくぶく肥えてたのに毎年毎年痩せさらばへて行くばかりぢやと、きつう心配してゐた、肺病にちがひないし、手当をするのは今のうちぢやと騒いでをつたが、……」
「――さうかも知れん、どうせ遠からず死ぬ」
自分は母親をいやがらせる言葉を知つてゐたので、さう云つて脅して置いた。彼女も、あんな狂人の兄貴の云ふことなぞ本気に信じてゐるわけではなく、自分が笑つて軽く一蹴するのを期待してゐたのだらう。だが、息子の身体をこせこせと案じ暮すのも、用事がなくて退屈してゐる彼女にはちやうど気のまぎれることになつてよからう。
自分が年齢《とし》を取るたびに痩せて弱くなつて来たのは事実である。十八貫近くもあつたのが、近頃は十二貫五百も怪しい。
「――中学の時は柔道の選手をしてをつたからの、天皇陛下の御前で試合したのをおぼえてるぢやろ」
今朝がた兄は虫歯をスイスイ云はせながら、さう云つてゐた。同じことを母親にも聞かせたものと見える。
「――かつ子さん、あんたは本当にせんかも知らんが、アルバム見りやちやんとお分りになるが、中学の頃はでぶでぶしてビール樽ちふ仇名《あだな》ぢやつたのが、高等学校へ入つてぐんと痩せる、大学でまたぐんと痩せる、市役所へつとめるやうになつてからは益々|蜻蛉《とんぼ》かきりぎりすみたいになつて了うたのです、顔色も真赤で艶があつたのに、気味が悪いほど土色になつて了うての」
兄の彦造は、妻には叮嚀な言葉づかひになる習慣だ。彼女に少し参つてゐるらしい。長い膝を折つて、臆病さうに上眼越しにチラチラと彼女を見てはくどくどと云つてゐる。かつ子は出勤前なので、露骨にうるさいと云つた表情で、髪に鏝《こて》をかける手を休めない。その前に、アルバムを展《ひろ》げて、紫色に褪《あ》せた自分の嬰児の写真からいちいち説明するのだ。それは、彼女がこの家へ来てから幾度繰返されたか数へ切れまい。兄は序《ついで》に、我が小倉家が昔からこんな貧乏をしてゐたのではなく、兵庫県ではれつきとした家柄でその盛大な時代を想はせる写真の数々が残つてゐるのを指摘したかつたのである。そしてまた、彼も自分も小学校以来どんなに好成績で通して来たかをつけ加へるのを忘れなかつた。その通り、自分たちは首席が当然であるかのやうに、どの学校でも首席であつた。彦造にしたつて、今でこそ頭脳が狂つてゐるが、東大の法科在学中にちやんと文官高等試験をパスしてゐる。それが卒業後、大蔵省に入つて一ト月目に極度の神経衰弱から早発性痴呆症みたいになつて了つた。一生快癒する望みのない癈人としてぶらぶらしてゐるものの、どこかちよつとをかしいだけで、別に精神病者として警戒の必要もないし、放置してある。毎日どこへ出かけるのか、古い友だちのつとめてゐる官署を訪ねて、普通の調子で話をして来るらしい。政界勢力関係についての内幕を聞いて来たり、ファッシズムの進行状態、戦争や満洲の問題のニュースを噛《かじ》つて来て、大声で自分たちに披露する。
「――そんなことあまりしやべりちらしてゐると引張られるよ」
気の変な者に注意しても仕方がないのだが、つい自分が云ふと、さう云へば、角の交番の巡査は確に自分を厳重に監視してゐる、きのふも前を歩いてゐるとじつと鋭い眼を離さなかつた、何故そんなに見つめる、と呶鳴《どな》つてやつたと述べる。気味が悪くてたまらん、どこかええとこへ宿がへして了はう、と云ひ出せばまた執拗《しつこ》くなつて困るのだ。同期の連中が年月と共に次第に昇進した地位について行くのが、彼の最も不平とするところで、今に見い、頭さへ治《なほ》つたらと口癖になつてゐた。日本が俺のやうな人物を容《い》れなければ、満洲国が迎へてくれると、出入りに兵隊が喇叭《らつぱ》を吹くやうな広大な邸宅に住み、権勢の限りをつくすやうな要人の生活を夢見てゐた。そんな大言壮語したあとではきつと、頭が痛いと苦しがつて両手で顳※[#「需」+「頁」、P98−上段5]《こめかみ》を揉むのが例になつてゐる。莫迦《ばか》なことである。
彼がかつ子に惚れてゐるのを自分が知つたのは最近だ。彼女の働いてゐる店へ度々現れるらしい。
「――よく云つて頂戴、のつそり入つて来て、かつ子さんここへいらつしやいと、まるで自分のものみたいに呼びつけて離さないんでせう、あんたは、清治に本当に惚れてゐますか、つてあの腐つた魚みたいな眼でのぞいて、本心を云つて下さい、もしかして、と思ひ入れよろしくあつて、僕は悩んでる、と吐息をつくのよ、他のお客さまの手前もあるし、もう来ないやうに云つて頂戴、来ちやいけませんて、私がづけづけ云ふと、僕を避けようとするあんたのその苦しい気持はよく分る、つてわけなのよ、笑ひも出来ないぢやないの、誰が一体お小遣をあげるのか知らないけど、お店ぢやそりやとても豪遊よ、見栄を張つて、高いものばかり取つて飲んだり食つたりしてゐるわ、お金なんぞ渡さないでよ」
兄貴には外出の場合にもほんの煙草銭しか与へてゐなかつた。それも出来るだけ現品で渡すことにしてゐたのだが、彼は旧友たちの間を廻つて、そんな遊蕩費《いうたうひ》を捻出して来るのだらうと、自分はのんきな彼が羨しくなつた。かつ子のお店と云ふのは、珈琲《コーヒー》店でも酒場でもないその中途を行つた茶房と称するもので、銀座で盛大に経営してゐた。茶房なんていやな名前だ。高い店なので、自分なぞは余り行けない。
兄は大体が身綺麗にしたがる性質で、用もないから朝から湯で時間をつぶしていつまでも洗つた上に、肌に直接つけるものと来ては、垢の跡ひとつも容赦《ようしや》しなかつた。うるさく、洗濯をする母親を叱りつけ、衛生観念の薄弱さを罵《ののし》るのだ。手なぞも大袈裟に云へば乾く暇もない位、絶えず洗つてゐなければ気がすまない。ああした精神病者の特徴なんですかね。それがいよいよお洒落《しやれ》になつて、かつ子の化粧料から自分用のを盗み取つて、鏡に向つてゐると云ふ始末である。
「――いやにめかすぢやないか、それでかつ子の店へ出かけるのかね」
彼女から注意のあつた後、自分は大人気もなくそんな皮肉を云つた。彼は狼狽して可哀さうであつた。赤くなつて、突然のやうに、俺は結婚したいと考へてゐる、と云ふのだ。
「――へえ、誰とだね、兄貴の女房にならうと云ふ女が現れたかね」
結婚したい、とはこれまでにも口にしなかつたわけではない。彼は自分が早くかつ子と一しよになつたのが不満であつた。年長の兄を差置いてと云ふ理由から、父が生きとつたら、こんな順序を心得ぬ淫《みだ》らな真似はさせん、とよく云つた。
「――まだはつきりしたことは発表出来ん、しかし、時日の問題ぢや、僕は婚約時代の気持でゐる、それよりも、気いつけた方がええぞ、かつ子は、僕が店へ行くのをいやがりよるが、ありや、僕が煙たいんぢやろ、仇《あだ》し男《をとこ》との秘密を見られるのを恐がつとるのぢや、ぼやぼやしとると、寝とられて了ふぞ」
それ以来、彼はかつ子の不貞を自分に思ひ込ませようと熱心になつてゐる。けさも、彼女が彼をまるで相手にせず、早番なので急いで出かけたあとでは、あれは男と約束してよる、確にまちがひない、尾行して現場を押へてやろか、と口惜しがつてゐた。
「――何でまたあんな浮気な店に出した、ちやんとええとこにつとめてをつたのに」
さう云はれて見ればさうも思へる。徴兵保険会社にゐたのを、れいの茶房が出来て、月給が十五円ばかりいいと聞いたので、友だちの紹介で入れて貰つたのだ。自分は大学を出てから、長い就職難に悩んだ末、やつと知識階級失業救済事業と云ふのに救はれて、市役所清掃課の臨時雇になつたが、日給が僅か一円五十銭なのだ。月四回の日曜やずるけ休みを勘定すると、大抵三十円ばかりにしかならぬ、いや、その三十円も自分はどうも家計に繰入れる気がしないから不思議だ。自分の一ト月の収入がたつたこれだけだと考へれば考へるほど、何もならぬことに浪費して見たくなる。酒や女に徒費するにはそれだけの金額など瞬《またたく》く間だ。裕福な友だちに逢ふと、奢《おご》りたくなる。逢ふまでもなく、電話で呼出して奢ることもある。どうしてだか、自分ながら分らない。従つて、一家の経済はかつ子の月給で切り廻す結果になるので、今のところをやめさせるわけには行かない。彼女は実際はさうでもないのだが、見かけは非常に軟く肉感的なので、ああ云ふ店でけちな放蕩心を満足させてゐるサラリーマンの人気を得てゐる。マスターは正月から給料をあげてもいいと云つてゐるさうだ。尚更、職場を大切にしなければならない。そりや、彼女が男たちの好色的な視線にさらされてゐて、中には彼女目当に通ひつめてゐるのもゐるし、手紙をくれたり、飯を食ひに行かうと云つたり、家まで送り届けてくれたり、もつと露骨な下素《げす》な手段で誘惑を試みたりする事実を知つてゐるのは、あまり気持のいいものではない。だが、誰でもが云ふやうに、それも退屈な夫婦生活に於ける刺戟として利用出来るのだ。時たま自分がその店に現れて、彼女が色んな男たちに騒がれてうまく捌《さば》いてゐるさまを眼にしてゐると、ちよつと舌を出したい心持にもなる。唯、岸田と云ふ、これは強敵だと思ふ男が現れたのは何とも不愉快だ。ひよつとすると、彼女は惹《ひ》かれてゐるんぢやないか。疑へば疑へる。その他の男のことは笑ひばなしとなつて、寝物語に供せられるのだが、そして、岸田もはじめはさうだつた。あいつはかつ子が軽微の眇眼《すがめ》なのを誤解して自分に秋波を送つてゐるのだと有頂天になつた莫迦《ばか》野郎だが、いつの間にか彼女は岸田のき[#「き」に傍点]も云はなくなつた。それでゐて、自分が茶房なるものへ行くと、あいつはきつとゐる、かつ子もべたりとそこにくつついてゐる、すでに一定の関係ある者同mが諒解しあふ沈黙をつづけたり、不要なお世辞笑ひを抜きにぽつりぽつりと小声で話してゐたりしてゐる
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