。それがぐつと癪に触るのだ。白状させて了ふのはこはいが、やけになつて追及すると、そんな下らないこと云ふんなら、これから岸田さんとこ行つてあかしを立てて貰はう、そして、もうあんな店はやめて了ふ、と夜中にも係らず喚《わめ》き散らすので手に負へないのです。店をやめられては大へんなので、結局はこちらが謝つて、なだめすかすと云ふ始末なんだ。何て情ない生活だ。
 ゆうべだつてさうだ。いや、ゆうべのやうな気持でゐたが、ゆうべぢやない、一昨夜、一昨昨夜になつて了つたが、自分が久しぶりに京都から帰つて来たのが九時であつた。京都へは一週間ほど前に、伯父の病気がアブナシとの電報があつたので母はもう老齢で行けないし、自分独りで葬式に参列するつもりで発《た》つたのである。行きついて見れば、帝大病院の一室で絶望を宣告された腹膜炎の彼は奇蹟的に生きてゐた。伯父は自分の成長した姿にはじめて接したので涙を流して悦んでくれたが、甥《をひ》や彼の肉親の者はほんの義理で電報を打つたつもりらしく、しかも伯父が生き返つたので、もしかしてこの昔の養子に遺産の分前のことなど云ひ出しはすまいかとはらはらして、自分には余りいい顔をしなかつた。二人の仲を邪魔して、ゆつくり話をする機会を与へないやうにするのだ。自分は糞くらへと思つた。伯父が小さなセメント山を当てたのを知つてゐるが、どうせたかの知れた遺産ぢやないか、その分前なぞあさましいこと考へて無理して汽車に乗つて来たんぢやないぞ、と云つてやりたかつた。自分は生れ落ちると早々、子供のなかつたこの伯父のところへ貰はれて行つたのだ。当時伯父は何をしても失敗ばかりで無一文だつたと云ふ。そんな家の名を残すための養子なんておよそ無意味なものだ。跡目を相続して母方の絶えないやうにと云ふわけだらうが、やはり何だか滑稽だ。それが五年ほどして実子が出来た、となると、自分はもう不要なので、品物のやうに送り返されたのである。その頃の愛着を伯父は思ひ出しはしないかと、病人の周囲の者は思ひ煩《わづら》つてゐるらしかつた。自分は十年以上彼に逢つてゐないので、彼の相貌を忘れて了つてゐたし、別に愛情の湧きやうもなかつた。邪魔がられてゐながら、それでも一週間も滞在して了つたのは、もうあすは死ぬか、死ぬかと待つてゐたからである。同じことなら葬ひを見届けて置いてと云ふビズネスライクな気持に、少しはやつらに対する意地も手伝つてゐた。さうは容易に退散してやらんぞ、一度は養子であつた自分に、遺産の分前を寄越《よこ》せ、それが当然だぞと云ひたげな表情もして見せた。しかし、本心の底はまた別だつたのだ。自分は旧藩主の育英会から奨学資金を貸与されてここの高等学校を出たので、何年ぶりかの京都を享楽しようかと思ひ立つたのだ。自分など、今までの生涯《しやうがい》を振返つて楽しかつた記憶はないが、強《し》ひて取り出せばs刳w校時代の印象がさうだ。その頃、自分ははじめて恋愛した。何か知らぬが、唯もうその悦びの極致がかなしく死と結びついてゐるやうなデリケエトな感受性に溺れる年齢であつた。相手の女は嵯峨あたりの僧侶の娘で、東山にある宗教学校に通つてゐた。どちらからとなく、そしてはつきりした理由もなく、死なうと云ふことになり、清水《きよみづ》の山奥で心中を計つたことがある。睡眠薬の量も足りなかつたのに加へて、晩春の雨が抱いて倒れた二人の上に降りそそいで、自分たちは蘇生したのだ。吐瀉《としや》を催して、自分たちは味気ない表情を見交した。しかし、すぐに思はず顔をそむけたのはどう云ふわけからだつたらう。恐らくは、お互ひに生きてゐると云ふ大事実の意識に、薬を飲む前の昂奮をはづかしく省みたせゐではないか。とにかく、それから、逢はなくなつて了つたのです。学校を欺いて、夜昼なしに姿を見なければ承知出来なかつた二人が、ふつつり逢ひたくなくなつたものだから人間の心理は分らない。自分たちはよろけながら、滑りさうになる夜の坂道を帰つた。二人とも一言も云はなかつた。五条坂へ下りて軽く会釈《ゑしやく》すると別れたのだ。自分は数日|臥《ね》ついた。女のことを耳にするのは、何とも云へぬいやな感じで、その耳をふさいで了ひたかつた。ちやうど日を重ると共に近づいた初夏のぎらぎらした光線に、生きてゐる、それでもやつぱり生きてゐる、と胸一ばいに叫んだ時ほどの、生命力に充ちた思ひ出はない。爾来、自分は色んな困難にぶつかり、それが自分を圧倒して了ひさうになる毎に、あの時の声色を呼び起すのにつとめたものだ。もつとも、あの折のやうに、瑞々《みづみづ》しい感覚はどう手さぐりしても掴めなかつたが。自分は何を書きだしたのだらう。こんなことを書いてゐては際限がない。さうだ、きつと、生きてゐる、それでもやつぱり生きてゐるとの叫びを文字にして、自分の鼓動をびしびしと叩きたかつたのだらう。へん、お生憎《あいにく》さまだ、と誰かに云はれてゐるやうな気もする。女は噂によると右下肢がひきつつて、一時|跛行《はかう》してゐたさうだが、それも劇薬の副作用だつたのにちがひない。京都へ再び来て、気障《きざ》つぽく云へば、あちらこちらの愛の古跡が自分の足をとどめさせてゐた。そして、この歳月のあとでは、やはり女の消息が知りたくなつてゐるのだ。変化する心は恐しい。自分は学生時代から友だちづきあひが悪くて、東京で今往来してゐるのは、転向出所後ぶらぶらしてゐる栗原位なもので、御無沙汰してゐた京都で、彼女のことを聞き出し得るやうな知人はゐなかつた。それで嵯峨の彼女の寺まで行つて私立探偵のやうに問合せて廻つた。最初養子を迎へたとのことで、一眼見て行きたいと望んだが、それは妹娘のまちがひであつた。姉の方は、とつくに死んでゐたんですよ。自分はさう知つた次の日に京都を去つてゐる。伯父はお役所が忙しいやろに、ほんまにすまなんだ、と繰返して感謝してゐた。お役所も何もない、臨時雇の自分なぞ、忙しかつたためしはないのだが、黙つてありがたがらせて置いた。人なみに青い事務セエードを頭にかけて机に倚《よ》つてはゐるものの、自分なぞする仕事が与へられず暇で困つてゐたのだ。これはひどく苦痛なので、清掃課長にその旨を云つたことがあるが、彼は、ここぢや人員が過剰なとこへ君たちが割り込んで来たのだ、国家が君たちに食扶持《くひぶち》を支給する表面の名義だけつければいいのだから、別にそんなに忠義立てして仕事する必要はないと答へた。自分は人間を莫迦《ばか》にした言葉だと憤然とした。だが、結局それでもいいのか、以前は乱れたままにしてゐた髪に櫛を入れたりして、定刻に通つてゐるからあまいものだ。そんなことを涙をためてゐる伯父が、お役所お役所と云ふたびに想ひ起して病院を出た。汽車は田園を走る。自分は学校を出た当座、地方の中学の口がいくつかあつた。その時は、一も二もなくはねつけたが、現在のやうな生活状態ならば、いつそ簡素な田舎《ゐなか》ぐらしに隠遁したやうな気持で悠々自適してゐた方がよかつたなぞと考へた。もう、あんな寒村の小学校でもいい、呼んではくれないかなぞと窓をなめるやうに顔を近づけて、冬の雲の下にうづくまる農家や牛や百姓を見るのであつた。もちろん、こんな気持が嘘なのは知つてゐる。さうして、九時に東京駅についたのです。話はこれからです。自分は家へ帰つてもつまらないと疲労を酒で医《いや》して、十時には自由になるかつ子を迎へて一しよに戻るつもりだつたのです。
 何とか茶房の前へ行くと、寒さにめげて人通りの少ない銀座の鋪道に岸田の奴さん、ステッキで靴先を叩きながら誰かを待つてゐるのだ。誰かをぢやなく、かつ子を待つてゐること位は、つんと胸に来た。野郎と思つたが、忍んでうかがふとやはりさうなのだ。では、自分が留守にしてゐた一週間もこの調子だつたんだな、と逆上するほど邪推がこみあげて来た。それでゐて、飛出して行く勇気がない。寧《むし》ろ彼らの眼をはばかるやうにこそこそと逃出したから、自分は不甲斐《ふがひ》ない人間だ。散々そこいらを飲んですつかり更けて家の戸を叩いた。
「――岸田とどこへ行つてゐた」
「――あの人が表で待つてゐて、踊りに行かうとすすめられたんだけど、断つてさつさと帰つて来た」
「――嘘をつけ、この売女《ばいた》」
「――嘘ぢやない、母さんに聞いでごらんなさい」
 すつたもんだあつて寝たが、疲れてゐるのに霜に打れて歩いたので、風邪をひいて朝は頭があがらぬほど重かつた。
「――序だから、けふも休んぢまひなさい」
 親切さうに彼女は云ふのだが、自分は承知しなかつた。月末に貰ふ給料がそのままになつてゐる。それを受取つてけふはどうしても米を買ふ必要があるし、兄のをも含めての奨学資金の月賦償還が随分たまつてゐるのだが、うるさく集金郵便で来て仕方がないと老母が嘆いてゐたので、それも払つてやる。さう自分は豪語して、シャツをよけいに着込んで出かけた。かつ子は自分が貰ひに行くと云つたが、あれの店へ役所の連中もよく出かけるので、彼女を使ひに出すのは好もしくなかつた。額が汗ばみ、背すぢがぞくぞくとし、自分は無理をしてゐた。兄はああ云ふ風になるし、自分もまだ正規の職業につけないとなると、奨学資金なる投資は失敗だつたと見做《みな》すべきである、それを取立てるなんて、なぞと満員で臭い空気のつまつた省線電車の中で自分はれいによつてぶつぶつ憤慨してゐた。それでゐて、自分はさう云ふものはちやんと支払ひたいのだ。月末の払ひや家賃なぞがたまるのは、自分はたまらなくいやだ。何とも見栄張りたい小心なのである。
 役所では、昼飯時になると栗原が現れた。彼はいつもさう云ふ時間をめがけて来る。彼はあきらかに生活に困窮してゐるのだが、余り自分を頼られては、俺だつて君以上に貧乏なんだぞ、おまけに妻をあんな卑しい所で稼がした金で君はのんきに食つてゐるんだぞと云ひたくもなる。そして、反動的に、日頃はつきあはぬ金持の知人に、奢つてやりたくなる。栗原は悄気《しよげ》てゐた。彼は逢ふたびに元気がなく、憔悴《せうすゐ》して行くやうだ。おちつきもなく何かに脅えた臆病な眼色をしてぼそぼそとものを云ふ。彼は日独防共協定や保護監察法案で、自分たち転向被告はますます手も足も出なくなつたと、顔を見るなり訴へはじめた。今は一まとめにして殺されるか、それとも全く改心した証拠に頭を剃つて坊主にならなければならないと泣き言をくどくど云ふ。
「――誰がそんな説を云ひ出したんだ」
「――誰も彼もない、情勢は切迫してゐるんだ、兜町《かぶとちやう》すぢからの話ぢや、一週間以内に戦争がはじまるさうだ、さうなると、もう完全な悪時代だからね、金があれば田舎へすつ込んで鶏でも飼つてこの反動期を切り抜けるんだがなア、いやア、帰る田舎があるだけでもいい、俺には逃げる場所がないのだ」
「――悪時代だけ逃げを張つて、状勢がよくなると、またのこのこ出て来て、景気のいいことを云ふのか、波が高まれば、戻つて来て大に昂揚したところを見せると云ふのか、沈んでゐる時は、どこかに隠れてゐて」
 自分は思はず皮肉を云つたが、彼には通じなかつたらしい。時代と云ふものは誰が作るのかと、自分は審《いぶか》しくなつた。彼が消極的な言葉を吐くと、その反対に自分は何か勇しいことが云ひたくてならなかつた。しかし、自分も本当は彼同様なのにちがひないのだ。強迫観念が身近く迫つてゐないだけの相違だらう。在学中から運動に飛こんで、乏しい自分なぞまでシンパにして大に勇猛果敢に活動した闘士がこの栗原とはどうしても思へなかつた。
 役所が退《ひ》けると、自分は何とか茶房へ行つて見た。扉のそばで、岸田は来てゐるぞと予感した。案の定、彼はかつ子の情人として坐つてゐた。このどら息子め、自分はビールを一本飲むと立ち上つた。かつ子が、自分が盛んに咳いてゐるのをつらさうに聞いてゐたが、近づいて来て、早く帰つて臥《ね》るといいわ、ほかへ廻つちや駄目よ、と耳打ちした。
「――本当よ、身体だけは大切にしなくちや」
 それを彼女が云はなければよかつたのだ。自分は却つて、何を、と
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
武田 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング