はあきらかに生活に困窮してゐるのだが、余り自分を頼られては、俺だつて君以上に貧乏なんだぞ、おまけに妻をあんな卑しい所で稼がした金で君はのんきに食つてゐるんだぞと云ひたくもなる。そして、反動的に、日頃はつきあはぬ金持の知人に、奢つてやりたくなる。栗原は悄気《しよげ》てゐた。彼は逢ふたびに元気がなく、憔悴《せうすゐ》して行くやうだ。おちつきもなく何かに脅えた臆病な眼色をしてぼそぼそとものを云ふ。彼は日独防共協定や保護監察法案で、自分たち転向被告はますます手も足も出なくなつたと、顔を見るなり訴へはじめた。今は一まとめにして殺されるか、それとも全く改心した証拠に頭を剃つて坊主にならなければならないと泣き言をくどくど云ふ。
「――誰がそんな説を云ひ出したんだ」
「――誰も彼もない、情勢は切迫してゐるんだ、兜町《かぶとちやう》すぢからの話ぢや、一週間以内に戦争がはじまるさうだ、さうなると、もう完全な悪時代だからね、金があれば田舎へすつ込んで鶏でも飼つてこの反動期を切り抜けるんだがなア、いやア、帰る田舎があるだけでもいい、俺には逃げる場所がないのだ」
「――悪時代だけ逃げを張つて、状勢がよくなると、
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