として警戒の必要もないし、放置してある。毎日どこへ出かけるのか、古い友だちのつとめてゐる官署を訪ねて、普通の調子で話をして来るらしい。政界勢力関係についての内幕を聞いて来たり、ファッシズムの進行状態、戦争や満洲の問題のニュースを噛《かじ》つて来て、大声で自分たちに披露する。
「――そんなことあまりしやべりちらしてゐると引張られるよ」
気の変な者に注意しても仕方がないのだが、つい自分が云ふと、さう云へば、角の交番の巡査は確に自分を厳重に監視してゐる、きのふも前を歩いてゐるとじつと鋭い眼を離さなかつた、何故そんなに見つめる、と呶鳴《どな》つてやつたと述べる。気味が悪くてたまらん、どこかええとこへ宿がへして了はう、と云ひ出せばまた執拗《しつこ》くなつて困るのだ。同期の連中が年月と共に次第に昇進した地位について行くのが、彼の最も不平とするところで、今に見い、頭さへ治《なほ》つたらと口癖になつてゐた。日本が俺のやうな人物を容《い》れなければ、満洲国が迎へてくれると、出入りに兵隊が喇叭《らつぱ》を吹くやうな広大な邸宅に住み、権勢の限りをつくすやうな要人の生活を夢見てゐた。そんな大言壮語したあとではきつと、頭が痛いと苦しがつて両手で顳※[#「需」+「頁」、P98−上段5]《こめかみ》を揉むのが例になつてゐる。莫迦《ばか》なことである。
彼がかつ子に惚れてゐるのを自分が知つたのは最近だ。彼女の働いてゐる店へ度々現れるらしい。
「――よく云つて頂戴、のつそり入つて来て、かつ子さんここへいらつしやいと、まるで自分のものみたいに呼びつけて離さないんでせう、あんたは、清治に本当に惚れてゐますか、つてあの腐つた魚みたいな眼でのぞいて、本心を云つて下さい、もしかして、と思ひ入れよろしくあつて、僕は悩んでる、と吐息をつくのよ、他のお客さまの手前もあるし、もう来ないやうに云つて頂戴、来ちやいけませんて、私がづけづけ云ふと、僕を避けようとするあんたのその苦しい気持はよく分る、つてわけなのよ、笑ひも出来ないぢやないの、誰が一体お小遣をあげるのか知らないけど、お店ぢやそりやとても豪遊よ、見栄を張つて、高いものばかり取つて飲んだり食つたりしてゐるわ、お金なんぞ渡さないでよ」
兄貴には外出の場合にもほんの煙草銭しか与へてゐなかつた。それも出来るだけ現品で渡すことにしてゐたのだが、彼は旧友たちの間を廻つ
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