て、そんな遊蕩費《いうたうひ》を捻出して来るのだらうと、自分はのんきな彼が羨しくなつた。かつ子のお店と云ふのは、珈琲《コーヒー》店でも酒場でもないその中途を行つた茶房と称するもので、銀座で盛大に経営してゐた。茶房なんていやな名前だ。高い店なので、自分なぞは余り行けない。
 兄は大体が身綺麗にしたがる性質で、用もないから朝から湯で時間をつぶしていつまでも洗つた上に、肌に直接つけるものと来ては、垢の跡ひとつも容赦《ようしや》しなかつた。うるさく、洗濯をする母親を叱りつけ、衛生観念の薄弱さを罵《ののし》るのだ。手なぞも大袈裟に云へば乾く暇もない位、絶えず洗つてゐなければ気がすまない。ああした精神病者の特徴なんですかね。それがいよいよお洒落《しやれ》になつて、かつ子の化粧料から自分用のを盗み取つて、鏡に向つてゐると云ふ始末である。
「――いやにめかすぢやないか、それでかつ子の店へ出かけるのかね」
 彼女から注意のあつた後、自分は大人気もなくそんな皮肉を云つた。彼は狼狽して可哀さうであつた。赤くなつて、突然のやうに、俺は結婚したいと考へてゐる、と云ふのだ。
「――へえ、誰とだね、兄貴の女房にならうと云ふ女が現れたかね」
 結婚したい、とはこれまでにも口にしなかつたわけではない。彼は自分が早くかつ子と一しよになつたのが不満であつた。年長の兄を差置いてと云ふ理由から、父が生きとつたら、こんな順序を心得ぬ淫《みだ》らな真似はさせん、とよく云つた。
「――まだはつきりしたことは発表出来ん、しかし、時日の問題ぢや、僕は婚約時代の気持でゐる、それよりも、気いつけた方がええぞ、かつ子は、僕が店へ行くのをいやがりよるが、ありや、僕が煙たいんぢやろ、仇《あだ》し男《をとこ》との秘密を見られるのを恐がつとるのぢや、ぼやぼやしとると、寝とられて了ふぞ」
 それ以来、彼はかつ子の不貞を自分に思ひ込ませようと熱心になつてゐる。けさも、彼女が彼をまるで相手にせず、早番なので急いで出かけたあとでは、あれは男と約束してよる、確にまちがひない、尾行して現場を押へてやろか、と口惜しがつてゐた。
「――何でまたあんな浮気な店に出した、ちやんとええとこにつとめてをつたのに」
 さう云はれて見ればさうも思へる。徴兵保険会社にゐたのを、れいの茶房が出来て、月給が十五円ばかりいいと聞いたので、友だちの紹介で入れて貰つたの
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