反感を持つた。自分を帰して置いて、岸田と遊びに行くのだらうと、またしても疑つた。酸《す》つぱい顔して、自分はうんと云つた。
 表へ出た。ポケットに幾ばくかの給料があつた。自分は放蕩してやらう、横浜へ行つて遊んで来る、と呟いた。それでゐて、ちよつとの寒風に鼻孔は苦しく、くんくんと云つてゐるのだ。
 新橋の吹きつさらしのフォームで横須賀行を待つてゐた。とそこへ下関行急行が来たのだ。自分はとつさに乗込んで了つた。旅行者のやうな面持で、何故だか知らぬ。きのふのけふで汽車の煤煙の臭ひと動揺がまだ身体や洋服についてゐたのが、習慣的に誘惑したとも云へよう。自分は検札に来た背の高い車掌に、京都と云つてゐた。これも何故だか分らない。
 日独防共協定のことなぞが、すべての乗客がだらしなく、口をあけ、むんむんとスチームにむされ脂汗を浮べて眠り込むと、思ひにのぼつて来た。対外政策であるあれは、国内的にも大きな意味を持つて来るのだらうか。ながい暗いトンネルを汽車は走つて、自分も栗原のやうに神経衰弱になつた顔の皺が、深くどす黒くガラス窓にうつつてゐる。実行や口外は以ての外、肚《はら》の中で思想の片鱗さへ抱いてゐても追及の手が延ばされるとすれば自分なぞは一体どうなるのであらう。自分なぞはと云ふことはない。自分は何者でもないぢやないか。自分はつひぞそんな思想に。嘘だ。勇気がなくてついては行けなかつたが、軽微ながらも共感を感じたことがあつたらう。栗原に金銭を提供した事実は、彼の自供によつて警察ではちやんと知つてゐるぞ。当時はそんな事件が多く煩瑣《はんさ》にたへかねて、召喚しただけで問題にしなかつたが、その証拠はちやんと栗原の調書や自分の提出した始末書に残つてゐるぞ。しらみつぶしにする場合に、何十年保存と記されたその書類を調べさへすれば、自分の影は浮き出て来て、容易に指摘されるのだぞ。さうなれば、生かすも殺すも自由にされる。
 熱にうかされた不自然な自分の頭脳は、思考のラビリンスの中をさまよつて、くたくたに疲れて了つた。おびえて眼をさませば、汽車は琵琶湖の端をめぐつてゐるのだ。京都駅へ下りると、しゆんと筋肉の凍り縮まるやうな冷さであつた。これが、病的な自分を人心持《ひとごこち》にさせてくれた。
 自動車の運転手が御見物ですかと、誘ひに来た。御見物はよかつた、と自分は気に入つて、さうだ、と答へた。ミルク
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