はあきらかに生活に困窮してゐるのだが、余り自分を頼られては、俺だつて君以上に貧乏なんだぞ、おまけに妻をあんな卑しい所で稼がした金で君はのんきに食つてゐるんだぞと云ひたくもなる。そして、反動的に、日頃はつきあはぬ金持の知人に、奢つてやりたくなる。栗原は悄気《しよげ》てゐた。彼は逢ふたびに元気がなく、憔悴《せうすゐ》して行くやうだ。おちつきもなく何かに脅えた臆病な眼色をしてぼそぼそとものを云ふ。彼は日独防共協定や保護監察法案で、自分たち転向被告はますます手も足も出なくなつたと、顔を見るなり訴へはじめた。今は一まとめにして殺されるか、それとも全く改心した証拠に頭を剃つて坊主にならなければならないと泣き言をくどくど云ふ。
「――誰がそんな説を云ひ出したんだ」
「――誰も彼もない、情勢は切迫してゐるんだ、兜町《かぶとちやう》すぢからの話ぢや、一週間以内に戦争がはじまるさうだ、さうなると、もう完全な悪時代だからね、金があれば田舎へすつ込んで鶏でも飼つてこの反動期を切り抜けるんだがなア、いやア、帰る田舎があるだけでもいい、俺には逃げる場所がないのだ」
「――悪時代だけ逃げを張つて、状勢がよくなると、またのこのこ出て来て、景気のいいことを云ふのか、波が高まれば、戻つて来て大に昂揚したところを見せると云ふのか、沈んでゐる時は、どこかに隠れてゐて」
自分は思はず皮肉を云つたが、彼には通じなかつたらしい。時代と云ふものは誰が作るのかと、自分は審《いぶか》しくなつた。彼が消極的な言葉を吐くと、その反対に自分は何か勇しいことが云ひたくてならなかつた。しかし、自分も本当は彼同様なのにちがひないのだ。強迫観念が身近く迫つてゐないだけの相違だらう。在学中から運動に飛こんで、乏しい自分なぞまでシンパにして大に勇猛果敢に活動した闘士がこの栗原とはどうしても思へなかつた。
役所が退《ひ》けると、自分は何とか茶房へ行つて見た。扉のそばで、岸田は来てゐるぞと予感した。案の定、彼はかつ子の情人として坐つてゐた。このどら息子め、自分はビールを一本飲むと立ち上つた。かつ子が、自分が盛んに咳いてゐるのをつらさうに聞いてゐたが、近づいて来て、早く帰つて臥《ね》るといいわ、ほかへ廻つちや駄目よ、と耳打ちした。
「――本当よ、身体だけは大切にしなくちや」
それを彼女が云はなければよかつたのだ。自分は却つて、何を、と
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