その時、彼は何か発見したやうな眼つきになり、ぢつと彼女の身体つきを検《しら》べ、眺め廻したのである。
 女の煙草は短かかつたので、すぐになくなつた。小説家は自分の箱を荒れた畳の上に置いて、一本つけては如何《どう》かとすすめるのであつた。だが、女は女らしく遠慮して「五十銭ただもろて、その上、煙草のませてもろたりしては――それこそ冥加《みやうが》につきます」と、辞退して手をださなかつた。それ位いいぢやないかと、尚も彼が云ふと強情に身を引かんばかりにして、
「いいえ、いけまへん」と、しをらしい表情をして見せたが、急に彼は自分の観察が誤つてゐるか如何かをためしたくなつて、何の悪い気もなく、
「あんたは、女とちがふな」と云つたのである。それを相手は随分と意地悪くきいたかも知れなかつた。どうして、そんなこと云ひ出したのだらうと、暫くの間、女は彼の顔を見つめてゐた。それから、両手を揉むやうにして、下うつむいて、嘆息した。
「やつぱり――分りまつか」と云つて黙り込み、それでもまた勇気を取戻したのか、
「そやけど、今までに一ぺんも見現されたことはおまへなんだ、ほんまだつせ――兄さんにかかつてはじめて――わやくやな」と、てれ臭さうに、力を入れて云つた。
 思つた通り男だつたのかと、小説家はうなづいたが、何とも分らぬ変な気持になつて――「ほう、そいで」と云ひ出すと、相手はその顔色を読んで、すぐ答へた。
「ええ、ちやんと、そいで商売してますねん、をなごとしてな」と奇妙な陳述をするのであつた。小説家は飽かず、この相手を見てゐると、そいつは、女でないと云ふことが明白になつてから今までと著しく態度を変へた。すぼめるやうにしてゐた肩も張り、
「ほんなら、一本いただきまつさ」と、遠慮を打捨て、手を出して煙草の箱を取つたが、その指も骨ばつて来たやうにさへ思へたのである。そして、
「もうとしですよつてに、身体が堅うなつてしもて――」と云ひ、問ひに応じて、二十歳であると云つた。
「まだ子供の時は、これでも綺麗や云うて、お客がたんとつきましてな――なんにも知らんとな」と、女のやうに口へ手をやつて笑つたが、急に煙草を揉み消すと、
「あんまり、ゆつくり、ここにをられまへん――何やつたら、わてのホースにおいでやすな」と、彼(女)は小説家が奇怪な話に興味を持ち出したのを知つてさう誘ひ、ここでは部屋代をとられる故、散財をかけては済まぬ、自分のところへ来い、と云ふのである。「ホース」と云ふは、「ハウス」か「ホーム」の訛《なま》りであるらしかつた。――
「すぐ、そこだす、第二愛知屋だす」
 そこで、小説家は偶然なことから、彼の懐古心を満足させ得たことを思ひ起し、今更のやうに、感慨深く部屋を見廻し、玩味し、剥げた壁や畳に、もはやかうした宿らしく人間の汁液が浸込み饐《す》えた臭ひがこもつてゐるのや、天井の薄い板もところどころ外れて垂れさがつてゐるのを、認めるのであつた。そして、再びその部屋を、楽書を見ることはなからう、と思つた。
 れいの女装の男は階下へ、彼のために傘と下駄とを持つて行き、破れた障子の中へ首を突込むと、中の者に何やら云ひ、それから大きな声で、「おほきに」と、挨拶して彼を促して、外へ出た。
 表通の方へは行かず「こつちから」と、路地の奥を突抜けると、木柵があつて南海鉄道のレールが走つてゐ、ずつと遠く天王寺公園に当つて、エッフェル塔のイルミネションが、暗い空に光を投げてゐる。――その黒い木柵の間を、彼(女)は着物も長襦袢もたくしあげて跨《また》ぎ、危うおまつせ、と彼のために傘を持つてやつて、案内するやうに云ふのであるが、もとより、小説家は子供の時に、そのレールの上に針金を寝かせ、電車の車輪にしかせてペチヤンコにしたり(彼はそれでナイフを作らうとしたのである)石を積みあげて、食物や道具を一ぱい載せてゐるにちがひない貨物車の顛覆《てんぷく》を企てたことがある位だから、必ずしも見知らぬ場所であるとは云へなかつた。北の方から電車が進んで来、警笛を鳴らし、蒼白《あをじろ》く烈しいヘッドライトはそれを避ける彼らの影を、雨に濡れた軌道の小石の上に大きく振廻すのであつた。越えると空地があり――その暗い中に、何やら人のざわめきがし、群れ集つてゐる気配があつた。
「轢死人《れきしにん》があつたんか知らん」と、女装の男は云つた。――
(ここで、もう一度、小説家の煩《わづらは》しい回想を許してやりたいと思ふ。かつて、このあたりではよく人々が轢《ひ》き殺された、彼らの生命が安かつたせゐかも知れぬ。夜更けてけたたましい警笛が長く尾を引いて鳴り、急停車する地響きがあると、仕事をしてゐる手を休めて、彼の母親は「また誰ぞ死んだ」と云つたものである。その時は身に迫るやうな寂しさを子供は感じた。そして、朝になると、今彼らの眼の前にある広場に蓆《むしろ》のかけられた血のしたたる屍骸が横たはつて、検死の済むのを待つてゐた。多くは無一物で、生きても死んでゐる者たちであつたが、ある冬の朝、近所のお神さんたちは、昨夜の轢死人は懐中に十円もの金を持つてゐたと噂し、そんな大金を持つてゐながら、どうしてまた死ぬ気になつたのであらうと語つてゐたので、それを聞いてゐた子供たちは大急ぎで柵をくぐり抜け、もしや、その不要な金を子供たちに分けてくれはせぬかと、一散に走つて行つたことである。)――
 処々高低のある、雨で軟くなつた土をごぼごぼと踏んで、彼らは、人だかりの方へ近づいた。外套をすつぽり着た巡査が懐中電燈を照して色々と命令し、人夫風の男が、ぐつたりした老人の大きな身体を、寝台車に担ぎ込まうとしてゐた。それはトルストイのやうな顔をし、白い鬚《ひげ》を長く延ばした爺さんであつたが、なかなか重いと見え、人夫は白い息をふうふうと吐いて少し手古《てこ》ずり、すると、人々の間から、白けた絆纏《はんてん》の浮浪者が出て――「爺さん、しつかりせえよ」と声をかけて片足をかつぎ、黒い布被《ぬのおほ》ひのある車へ載せるのであつた。そして、力なくだらりと垂れた老人の足からは、竹の皮の冷飯草履がぬげて落ち、垢ぎれでひび割れた大きなその足裏が気味悪く、懐中電燈の光にうつし出されるのであつたが、れいの浮浪者は逸早《いちはや》く、草履を自分の足に――彼ははだしだつたので、ひつかけた。すると、巡査は癪にさはつたやうに、「おい、おい」と頤《あご》を振つて注意し、――「そら、病院のや、いれとけ、いれとけ」と叱つた。浮浪者はすなほに、その病院の名らしく焼印のおされてある草履をぬぐと、肘《ひぢ》で拭ふのであつた。何故なら、すでに彼の足の泥がつき、濡れて了つてゐたのである。少してれて、それを老人の足指にはめようとしたが、すぐ落ちてダメなので、人夫は黙つてひつたくり、車の底へ押込んだ。
「兵隊辰やな」と、女装の男は、癖で歯をガチガチ寒さうにならしながら、小説家に説明して云つた。その声に、巡査はちらと、こちらを見たが、人夫が寝台車の梶棒を握つて立ち上ると、「爺さん、もう戻つてくれるな」と云つた。さつきの浮浪者はそれに応じて、「旦那、兵隊辰はもう二度とここへ帰つてけえしまへん――今さき、触つたらもう冷たうおました」と低く云つたが、巡査は苦々しい顔をした。――「困つたやつちや――わしの責任になるがな」そして、今まで、爺さんの寝臥してゐた蓆《むしろ》を靴の先で蹴り飛ばした。
 車はゆつくりと去つて了ひ、人々も散るのであつた。あとには、雨が再び寒く降りはじめ、女装は、
「おお寒むやこと、すつかり冷えこんでしもたわ」と、云つた。広場はもとの静けさに戻り、あちらこちらに火が燃え、雨の中に明るさが溶けて見えるのである。それは浮浪者たちが、大きな穴を掘り、その中で物を――塵芥を燃しながら、その白つぽいむせかへるやうな煙の横に、うづくまつて、眠りをとつてゐるのであつた。
「今晩は」などと、その穴の側を通りながら、小説家の同伴者は声をかけ、
「降つて困りまんな」と云ふのである。
 兵隊辰とは――歩きつつ、彼(女)が語つたところによると、以前は軍人で、日清日露も両方とも出征して勲章を貰つたが、心臓を患《わづら》ひ、子供身寄もなくて、ここまで零落したのである。最近は殊に衰へ、寝込んでゐたので附近の宿なしたちが心配して、慈善病院に入れるやう「旦那」に交渉し、そして入れたのであつたが、すぐと、不自由な身体をひきずつて、この空地へ立ち戻つて来た、驚いて連れて行くと、また、ひよろひよろと帰つて来、それを再三再四繰りかへしてゐたと、云ふ。
「なんでや」と、小説家はたづねた。彼は、さうした慈善病院の官僚的な冷い有様や、堅い寝心地の悪い木のベッドよりも、弱つた神経のうちから馴れた野宿を思ひ出すあの浮浪者魂のことを、考へてゐたにちがひない。
 しかし、相手は、
「なんでだつしやろな」と無関心に答へ――「寒い、寒い、――兄さん、お酒はどうだす」と、云ふのであつた。なるほど、広場を過ぎたところに、焼酎屋があつたが、彼は、「さあ、金があるか知らん」と心配すると、
「いや、大丈夫」と、女装は力を入れて「おます」と、勝ち誇つた。先程、小説家が彼に五十銭与へた時、その財布の中を、のぞいて数へて了つたのだと云つた。それは商売からして、無意識に行ふのである。
 ――油障子を半分だけ閉めた中の、二すぢの長いテーブルには、人々が――ボタンのない外套の上から縄をしめたのや、羽織もなく寒々とした黄色い顔の男や、絆纏《はんてん》にゲートルを巻いて、何か知らぬが大きな風呂敷包を腰にくくりつけたのや、眼脂《めやに》で眼蓋《まぶた》のくつつきさうになり、着物の黒襟が汚れてピカピカに光つてゐる女やら、――みんなすでに酔払つてゐて、頭を重く垂れ、時々あげてあたりを睨むと訳の分らぬ叫びをあげて会話し――一切が不健康に濁り、空気は淀んで腐つてゐるやうに見えた。小説家と女装の男とは、あいたところに腰をかけ、値段書のぶらさげてある背後の羽目板にもたれ急に冷くなつた足先を土間で踏みならしながら、店のものが大きなコップに焼酎をつぐ手許をぢつと見るのであつた。透明な液体は溢れて、木目のはつきりした汚いテーブルの上に流れると、女装は口を近づけて吸込み、舌なめずりするのである。更に彼は媚びるやうに小説家を見てから、艶つぽい声で店員に註文を発すると、豚の腎臓をそのまま薄く切つたのが塩を副《そ》へて持つて来られ、彼(女)は指でそのべろべろした血のかたまりみたいなものを、つまみあげて、彼に、
「どうだす、ひとつ」と云ふのであつた。――「ちよつと臭《かざ》がしますけど、通人の食べものだつせ」
 さうかも知れぬ。しかし、小説家は手を出すことをしなかつた。
 やがて、簡単に酔ひが身体に廻ると、昂奮して女装は、多弁になり、ハンカチを出して胸にあてたりして、口惜しがるのであつた。それは、またしても、彼(女)が今まで本当は男であるのを発見されたこともなく、――また真実女であつて、その他の何ものでもないと、自分自身も永い間信じきつてゐたと云ふことで、縷々《るる》としてつきなかつた。彼(女)はその日常生活の末々端々にいたるまで女子として行動し――そして売春婦として存在することによつて、一家三人が第二愛知屋(木賃宿)に一部屋を借り受けてこの数年暮しを立てて来、もちろん、その弟で十四歳になるのも昨年あたりから女になつて、客をとることを覚え、彼らの母親はかなり楽になつたが、――
「やつぱり歳のすけないのは、骨がやはらかいし、肉もしまつてまへんよつてに、もうわてらと較べもんにならん位、よう売れます」と、感心して、彼は云つた。その弟が先日警察の手入れであげられ――そこで、肉体を発見され、釈放される時には、折角延ばして結つてあつた髪の毛を短く刈取られて了つた。――「早う生えてくれんと、商売でけしまへん、ほんまに無茶しよる」と、彼は憤慨して抗議した。「そんなことする罰は法律にはないさうだす」と、彼は知合の――同じく第二愛知屋に宿泊してゐる弁護士(!)に聞いたと云つた。色々と話の末、彼(
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