女)は今後も完全な「女」として生きる決心を告げ、(さうした女としての暮し、その衣裳、殊に下着や腰にまとふものを身体につける時の悦びを昂奮した調子で彼は語つたが、妙な商売の思ひつきから、すでに救ふべからざる倒錯症にかかつてゐることを証拠立てた)――最後に、
「かうなつたからには、意地でも、どうかして子供を産んで見せます!」と、断言したのである。小説家は、その言葉が単に彼(女)の酔ひから無責任に放たれたものではなく、本当にさう信じてゐるらしいのを見て驚いた。
「なに、子供を産む――何ぬかしてんね、ど淫売の癖に、ふん、父無《ててな》し子か!」と叫んだものがあつた。奥の方にゐてボタンの一つもない外套を着た男であるが、とつくに酔ひ倒れて、テーブルに両手を投出して眠つてゐたのに、さう呶鳴《どな》ると立ちあがり、彼らの方へ危げにやつて来た。
 皮膚の上にもう一枚皮膚ができたやうに、垢と脂とで汚れきつてゐるが、眼蓋《まぶた》や唇のぐるりだけ黒ん坊みたいに隅《くま》どつて生地の肌色が現れてゐた。――彼はたしかに、さう声をかけたのを機会に、小説家の方へ来て、焼酎をせびらうとしたのである。それは、すぐ「産むなら、なア、この旦那の子供を産めよ――ほんまやぞ、なア、旦那」と云つて歯を出してお世辞笑ひしたのでも分つた。ところが、彼は今一ぱいの焼酎が咽喉をよく通らないほどになつてゐて、酒はだらしなく、口から涎《よだれ》のやうに流れ、コップはぽんとテーブルの上に投げられ、ころがるのであつた。
「あア」と、彼は聯想するやうに云つた。「なア、ほかのやつの子を産むな、間男の子なんか産んでくれるな」――
 それから、彼は急に泣き出して了ひ、「わいの嬶《かかあ》は、間男しやがつて、そいつの子を産みやがつて」と嗚咽《をえつ》したが、やがて濡れた顔をあげると、
「何もそんなこと、最初から分つてたんや、わいは、大体、女の癖に新聞読んだりするやつは好かん」と、そむかれた彼のお神さんのことを罵つた。
 その云ふことは前後取りちがへてゐ、呂律《ろれつ》も廻らず、そのまま文字にうつすこともならぬが、彼が若い時、郷里へ帰つて貰つた女房を連れ、大阪へ戻る途中、花嫁である彼女が姫路のステーションで新聞を買つて、読んだと云ふのである。「わいさへ新聞みたいなもん読んだことあれへんのに」――そこで、実に彼は癪にさはり、生意気に思へたので、すぐにそのまま引返して、離縁しようかと一時は考へたが、せつかく人手を煩《わづら》はし、世話して貰つたのにと、胸を撫でて我慢した――それがいけなかつた、やはり、新聞の一つも読まうかと云ふ女は「学問」を鼻にかけ、他に男をこしらへて出奔して了ひ、自分の観測に誤りなかつたことを思ひ知らねばならぬやうな始末になつたのである。――
「ああ、やけぢや」と、彼は結んだ。
「兄さん、大分廻つてる、苦しさうや」と、女装は云つた。すると、
「あたりまへや」と、何故か彼は「女」には荒々しく云ひ、もう二日も前から飯を食つてゐないことを告白して、青い顔をした。小説家は、もしさうなら、如何に酒好きであるにしろ、焼酎なぞ飲む金で何故腹をこしらへなかつたか、と責めるのである。ひよつとすると、これは昔このあたりによく見かけたアルコール中毒かも知れぬ、と彼は考へた。
 すると、外套の男は腰紐代りの縄に手を入れ、しごきながら、
「ほんまのこと云うたろか」と云ふのであつた。小説家は云つてくれと云ふ顔をした。
「そりやさうや、さうや、旦那の云ふ通りや、誰が銭持つてたら、空き腹に酒なんかあふるもんか、米のめしがほんまに恋しうてならんわ――をとつひも飯食うたんやあらしまへん、観照寺で接待ある云うよつてに、伊原つれて出かけたら、それが、うどんの接待だす、伊原にお前わいに半分残しとけ云うたのに、あの狸め、ちよつとも余さんと食うて了ひよる――なア旦那、大体伊原に、観照寺で接待あるよつてに行こか云うて誘うたのはわいだつせ、知らんとゐたらうどん一すぢも口に入らんとこや、なア、そやのに、恩知らずめが、どうだす、礼儀の知らんこと、後輩の癖にわいより先にお汁をかけて、ちよつと残しといてと頼んどいたのに、どんぶり鉢のはしも噛る位綺麗に食うて了ひやがんね、――それからと云ふものは、まる二日、仕事もないし!」
 彼の後輩である伊原が何ものであるかも、また彼の仕事がどんなものであるかも、酔払ひは説明しなかつたが、そのたどたどしい独白に、この店の中で、強い焼酎に痺《しび》れた頭をかかへたものたちは、ひそかに白い吐息をして、耳を傾けたのである。
「わいは、何のはなししてたんやつたかいな、――そやそや、旦那は酒飲む金で飯食へと説教してくれはつたんやつたな、どうも、おほきに」と皮肉に口を歪《ゆが》め、「そやけど、ほんまのことを云ふとやな」と、語り出した。――彼らはどんなに空き腹を抱へてゐても、人にめしを食はせてくれ、とは云へないのであつた。何故ならば、誰も彼も自分だけが食ふのが精一ぱいで余裕は更にないので、しかも頼まれたら、すぐに足りないものも半分は分けてやらねばならず、――だから、そんな人の予定を狂はし迷惑かけるやうな依頼心を起すのは道徳的ではないと、されてゐる。そして、もしも誰かが景気よくて(景気よくて!)すつかり気が大きくなり、おい、酒のませたろかと誘はれた時にも「酒の代りに飯をおごつてくれ」とは云へないものだ、と外套はしみじみ述懐した。それは一つには、虚栄心もあつたし、また折角相手が酒で愉快になつてゐる気分をぶちこはすに忍びないからであつた。だから、今夜のやうに酒だけで腹をこしらへてゐる時もある!
「兄貴、酒おごらんか、は云へます、そやけど、云へまつか、めし一ぱい頼むとは」と彼が云へば、夜更けの酔払ひたちは口々に、「さうは云へん、云へんもんぢや」と、首を振るのであつた。――小説家は、そこに浮浪者につきものの、さやうな貴族精神を見て、悲しく思ひ――さう云ふはなしを俺にするからには、俺にめしをねだつてゐるのだらう、と云ふと、
「あたりました」と答へ、なんでや、見栄があるやろ、とからかふと、「あんたは、旦那やよつてに、かめへん」と、尚も小説家を悲しませるのである。
 それから雨中に、のれんを排して出た女装の男は、頬に雨滴をあてて、
「おお、冷《ひや》こ、ええ気持やこと!」と叫び、酒にまかせて外套の浮浪者にしなだれかかると――「ちつ! わいは女はきらひや」と、彼は忌々しげに舌打ちし、その手を払つて、どんどん先に立つて行くのであつた。
「上等の店、おごつて貰ひまつせ」と、彼は云つて木賃宿の裏手の狭い道を――そこから薄暗い部屋に親子夫婦たちがくるまるやうにして寝てゐるのが煤《すす》けた格子窓越しにのぞかれ、また戸締りのしてない裏木戸からは、列んだ便所の戸がどれも開いてゐるのが、陰気臭く見えるのであつた。
 めざす店はまだ起きてゐた。
「芋粥《いもがゆ》くれ、おつさん」と、外套は呶鳴つた。吹きながら、人々の手垢で黒くなり、塗りの剥げた箸で、煮込のやうな粥を咽喉に通しながら――「なんやて、明日ハ十五日ニツキ アヅキガイ二銭モチ入アヅキガイ三銭――よし来た、おつさん、今晩は旦那がついてる、餅入小豆粥一つ呉れ」と、壁に張つた紙ぎれを読んで云ふのであつた。
 絣《かすり》の筒袖《つつそで》を着、汚れてはゐるが白の前掛をかけ、茶つぽい首巻をした主人は、煤の垂れさがつてゐる、釜の側で、煙管《きせる》をくはへてゐたが、
「こら、あしたや、けふはあかん」と、ぶつきら棒に返事した。
「あしたやて、ふん、あしたと云ふ日があるならば」と浮浪者は節をつけて応酬をして、「こら、見い、もうぢき、十二時やぞ、そしたら、あしたや、待つてたろ」と、箸をあげて、棚に置かれてある、アラビヤ数字のいやに大きいニッケルの眼ざまし時計を、指すのであつた。主人は冷く、相手にしなかつたので、彼はまた呶鳴りちらした。
「こら、わいの云ふことが分らんか、こら、人殺しめ!」
「なに云ひなはんねん、そんなこと」と、女装が驚いて制止すると、
「うるさい、女は黙つとれ」と、彼は邪慳《じやけん》に唸つた。それでも、主人は身動きもせず、白い眼で見るだけで、――その眼が 「このルンペンめ、そんなこと云ふと、もう、うちの粥食はさんぞ」と云つてゐるやうに見えたので、外套は、がくりと首を垂れ、
「いや、ほんなら、芋粥お代り」とおとなしく云つて、うまさうに、かぶりつくのであつた。――
 彼が粥屋の主人に向つて、人殺しと罵つたのは、何も理由のないことではなかつた。その店を出ると、そんなことを云ふなと止めたくせに女装の男が先に立つて、問ひもせぬに小説家に語つた所によると、――もう二年前にもなるが、その秋のちやうど夕飯頃、あの店が粥を食ふ零落者で混んでゐた時、ある男が(外套は、あら、田辺音松や、やつぱりわいの友だちや、と云つた)――その田辺が二銭払つて出ようとすると、主人は三銭置いて行けと請求し、何故かと聞けば、一銭の漬物を食つたから、と云ふので、田辺は驚き、いや、そんな覚えはない、と云ひ張り、この漬物皿は横にゐたやつが平げたのやと述べたが、主人は更に聞き入れず「食つた」「食はぬ」と争ひになり、果は、田辺がどんと胸をつかれると、悪いことに空き腹がつづいて力の抜けてゐた彼は、そのまま仰向けに倒れて敷石で頭を打ち――そして、もう二度と動かなかつたのである。調べた結果、頭蓋骨が折れたのが死因と分つた。もちろん傷害致死で主人は行つたが、それも三四ケ月すると、もう店を開いてゐたと云ふ。――外套は力んで、「今に仇をとつたる」と云ひ、「そやけど、あすこの芋粥はほんまにうまい」とほめて、そんな店を潰すに忍びないと云ふやうな顔をした。
 話が終ると、突然、外套は「おほきに、御馳走さん」と云ふなり、眠つた低い家々の間を、そこには雨の中に傘をさして淫売婦たちが辻々に立つてゐるのであつたが――駈出したのである。
「待て!」と、小説家は呶鳴つた。寝るところがあるか、と心配したのである。
「今夜は、腹も張つたし、酒ものんで、ええ塩梅《あんばい》やよつてに、その勢ひで野宿《でんでん》する」と、相手は答へ、尚も走りつづけようとした。
「待て!」と再び小説家は云つて、幸ひこの「女」がすすめるから、一しよに第二愛知屋に泊らう、と誘ふのであつた。
 すると、不思議なことが起つた。――今まで、いやに辛く女装に当つてゐた外套は急に叮嚀な言葉づかひになり、「姉ちやん、えらいすんまへんな、屋根代もなしに、厄介になつたりしまして」と挨拶するのである。――思ふに彼は彼の逃げた細君以来、女にはよからぬ感情を抱いてゐたので、自然、女装に対しても冷かな態度を取つてゐたが、今は彼(女)は部屋主《まどもち》になつたので、その点から礼儀をつくしたのである。
 その証拠には、彼が彼女の「ホース」に行きついてからは――大戸をガラリとあけて女装が帳場に坐つてゐるキナ臭い中年の男に「頼んまつせ」と申入れた時も、うしろについて彼はぺこぺこと頭をさげたし、また広い階段の途中ですれちがひ、彼(女)から、「今晩は」と、呼びかけた、赤い顔に髭《ひげ》を蓄へた、しかし、口のあたりに何やら卑しい腫物《はれもの》の出てゐる、袴をはいた男にも、外套は腰を折らんばかりにお辞儀するのであつた。その袴の男を、あれが、弁護士だす、と女装は云つてきかせた。――
 彼(女)の部屋では、浮浪者は益々小さくなつて隅の方に坐り、しきりとボタンのない破れ外套の前を合せ、巻いた藁縄をはづかしさうに触つて見るのである。そしてすでに寝てゐる弟や(なるほどその髪の毛は最近に散切《ざんぎ》りにされたあとがあつたが、少し延びかかつてゐ、ちやんと女風の長襦袢の肩を見せて眠り、日頃のたしなみを見せてゐた)また母親に(彼女は二人の外来者を無言のままじろじろと観察した)――突然夜半に訪れたことを、幾度も繰りかへして謝するのであつた。――
 それほどだつたから、朝になり、みんなが眼ざめた時、すでに遠慮深い彼の姿は消えて、見られなかつ
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