釜ケ崎
武田麟太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)痺《しび》れて
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 カツテ、幾人カノ外来者ガ、案内者ナクシテ、コノ密集地域ノ奥深ク迷ヒ込ミ、ソノママ行先不明トナリシ事ノアリシト聞ク――このやうに、ある大阪地誌に下手な文章で結論されてゐる釜ケ崎は「ガード下」の通称があるやうに、恵美須町市電車庫の南、関西線のガードを起点としてゐるのであるが、さすがその表通は、紀州街道に沿つてゐて皮肉にも住吉堺あたりの物持が自動車で往き来するので、幅広く整理され、今はアスファルトさへ敷かれてゐる。それでも矢張り他の町通と区別されるのは五十何軒もある木賃宿が、その間に煮込屋、安酒場、めし屋、古道具屋、紹介屋なぞを織込んで、陰欝に立列んでゐるのと、一帯に強烈な臭気が――人間の臓物が腐敗して行く臭気が流れてゐることであらう。
 一九三二年の冬の夜、小さな和服姿の「外来者」が唯一人でこの表通を南の方へ歩いてゐた。冷い雨が降つて、彼のコーモリ傘を握つた指先も凍れて痺《しび》れてゐるのに、別にここで宿を求めるでもなく、人を訪ねるけしきもなく、ゆつくりとした足どりであつたが――その様子を、家の軒端に立つて、今まで首巻代りにしてゐた手拭で頬被りし、腕組んでゐる宿なしたちも別に注意しなかつたし、交番所の年とつた巡査も怪しまなかつたところを見ると、その外来者は、この土地に適した顔かたちをしてゐるのだらう。さう云へば、実は彼は東京に住む小説家であるが、批評家たちがいつでも口癖のやうに「彼にはルンペン性があつて、どうもよくない」と眉をしかめてゐるのも思ひ当るふしがないでもない。――しかし、彼はこの寒さに何の気紛《きまぐ》れからして、あんなに物思ひに沈んだ表情でこの地帯を行くのかと、人は問ふかも知れぬ。それは過去をなつかしむ感情に駆られた結果である。と云ふのは、彼はこの街で生れ十二まで育つたのであるが、ほんの三日前、ここで彼を手塩にかけて大きくした母親が急死し、その追憶の念が彼の足を知らぬうちに、こちらへと向けさせたわけである。もとより彼はまだ年少で、自分の激情を制するすべもわきまへぬ男故、要もないかうした夜歩きや感傷癖を許してやつてもよいだらう。
 すでに、街から醗酵《はつかう》する特殊な臭ひは聯想作用を起して、彼の胸に種々な過去の情景を浮びあがらせ、彼はそれに簡単に陶酔して了つてゐたので、その尖つてゐる眼もいつに似ず柔和に光り、何も見てゐないに近かつたのである。唯、去来する思ひが――たとへば、袋物工場に通つてゐた母親が、夜も休まず石油の空箱を台にして(その箱の隅には小さな蜘蛛《くも》が綿屑みたいな巣をかけてゐた!)セルロイド櫛《ぐし》に、小さな金具の飾をピンセットで挟み、アラビヤゴムと云ふ西洋の糊でつける仕事をしてゐる横に、新聞紙にくるんだ芋が置かれてある有様や、そして、その芋は彼女の夕飯代りなのだが、夜更けると子供たちが腹をすかせるので、彼女は大半を残して置き、子供たちがせびると「何云ふねん、こらおかんのや」と云ひながらも分けてやり、または、その飾附けの出来あがつた櫛を十歳の少年である彼と共に大きな重い風呂敷包にして、大国町の問屋に運ぶ時の手だるさやら、そんな稼ぎものの彼女にも係らず、ある夜は鴉金屋《からすがねや》の親爺に罵《ののし》られて(彼が今にいたるまで鴉金の名称を忘れずにゐるとは何と云ふ因果なことであらう。それは朝貸出した金が夕方には利子をくはへて元の巣へ飛戻つて来る。――鴉のやうに、と云ふので、さう呼ばれてゐた。一円を借入れると、先づ十銭は天引、手取は九十銭であるが、その後一円の五歩の利息を加へて、八日間に返済しなければならぬ)彼女はしかたなく、片隅に積んであつた小便臭い家族たちの蒲団を頭にかついで外へ出て行くと、その頃流通してゐた十銭紙幣の油じみたのを持つて帰つて来たが、その夜の明け方の寒さやら、或はぐうたらな遊び好きの少年であつた彼が、尾上松之助の侠客物が見たくて、彼女に嘘をつき金をねだり、すると彼女はまた思ひ余つて、巻いてゐた帯を解いて絣《かすり》の前掛だけになり――帯は彼の入場料になつて、彼は活動写真に感激した余り、二階の上りつぱなの壁に、墨で以て、眇眼《すがめ》の尾上松之助の似顔絵を大きく書いたり――
 妙なもので、遠い以前の習慣を、足は忘れずにゐて思ひ出したものか、無意識にふと立ちどまり、そこで小説家がはつとして眼を転じるならば、ちやうど彼が生れて育つた家の、路地先まで来てゐるのであつた。雨にベタベタに濡れて光る浪花節《なにはぶし》のポスターが、床屋の表にぶらさがつてゐるが、その横を折れて二軒目がさうである。――この床屋も代が変つたであらう、彼はいつも小僧のために「虎刈」にされてゐた。今夜はもはや客がないと見え、ガラス戸を閉めて、白いカーテンを張りめぐらしてあるので、内らは覗けぬ。
 路地に入ると暗がりで、軒並みの家々の影も、永い年月が経つてゐる故、古びて歪《ゆが》んでゐるやうに思はれ、しかもどこもしんとして静かなのが、少し小説家にはよそよそしく感じられないでもなかつたが、懐しい場所に再び立入つたことで、彼の気持はすつかり満足してゐた。――自分が十二年もゐた家に、今は如何《どう》云ふ人が住み、如何云ふ生活がなされてゐるかと、想像するのは、甘い楽しみであつたから。
 すると、彼はその家の戸口に女が出て来たのを認めたのである。それは恐らく、そこのお神さんで、外出しようとするのだが、雨はまだ止まぬかと模様を見てゐるのだらうと、察した彼は、迂濶《うくわつ》に佇《たたず》んでゐたりして、不審がられるのを恐れ、わざと、もちろん軒燈もないから見えるはずもないが、隣家の表札に眼を近づけたりするのであつた。だが、それは無効であつたと云へる。女は片足を踏出すと、突然、彼の袂《たもと》を――それから身体全体を抱へるやうに掴《つかま》へて了つたのである。そこには必死な抵抗すべからざるものがあつた。驚きと怖れから、小説家は身をもがいたが、慣れた――たしかにさうすることに慣れた、特殊な技巧のある女の両腕は強くて離れず、それではこの女は、とすぐに彼は気がつかぬでもなかつたものの、まだ半信半疑のうちに、もはや土間にひきずり込まれてゐて――そこに、昔の彼が顔を洗ひ水を飲んだ場所がちらと見えたかと思ふと、どんと揚板の上へあげられ、更にむりやりに尻を押されてつまづきさうになりながら階段に足がかかる時には、やつと一切を理解し得たので、少しの落ちつきも取りもどし「おい、さう押すなよ、危い」と、女の方を――化粧した吹出物のある顔を振りかへつて云ひ、それからひよいと正面に向き直ると――彼の眼には、二階への昇り下りにしめつぽい手垢ですつかり黒く汚れた壁の上に、まぎれもなく彼の筆になる尾上松之助の似顔絵がはつきりと残つてゐるのが、うつつたのである、うつると同時に一種の感慨に胸をせめつけられ、急に酸つぱい気持がこみあげて来て、不覚にも尾上松之助はぼうつとぼやけて了ひ、女に抗《さから》つてゐた身体の力もそのまま抜けて了つたやうな気がした。
 女は、まだ雨しづくの垂れさうなコーモリ傘と泥を歯の間に挟んだ下駄とを敷居の上に寝かせてから、高くつつた黄色い電燈の光を裏から受けてゐるので埃の浮いて見える歪《いび》つな日本髪の頭を傾け、彼の様子を――今にも泣出さんばかりのその表情を、けげんさうに、打守るのであつた。もちろん彼女には訳はわからず、この何と云ふ気弱な男であらう、淫売婦に有無を云はさず乱暴に引張りあげられたのを、どぎもを抜かれ、後悔してゐるのかと、考へたかも知れぬ。そこで彼女も呆気《あつけ》にとられ、ぽかんとした顔で、寒さに歯をガチガチと打鳴らしながら、
「すんまへん」と、云つた。――それから、気の毒さうに、彼の方へ掌を差出したのである。
 小説家は、彼がこの家で生れたこと、あすこに見えるあの落書こそは彼の手になるものであること、しかも、思ひ出の積つてゐるその建物は、今は淫売婦の仕事場になつてゐること――それらを、彼女の前に語り出したくなつたほど、感傷に溺れきつてゐた故、女の請求をはねつけるだけの勇気もなく、一体何ほど与へればよいか、と細い声で質問するのであつた。
「すんまへん」と、また彼女はあやまるやうに云ひ、――「五十銭やつとくなはれ」と態度は優しく嘆願するのであるが、その精神には、今にも彼の懐中に手をさし入れるばかりの執念深さがあつた。
 彼が、どうかして母や弟妹をこの窮乏から救ひ出したいものと、来る日も来る日も考へつめてゐたこの六畳の部屋は、薄い雨戸を真中に立てて、二つに区切られてゐ、あちら側にも人の動く気配《けはひ》があつたが、ちやうどその時、その中から口争ひをはじめた男と女の声が聞えて来たのである。
 ――女の声がののしるには「そんなあほらしいことできるかいな――そんなことはなア、十銭淫売のとこでも云うとくなはれ、うちはちとちがふ!」と、云ひ、見そこなつては困る、あほたんめと、附け加へるのであつた。――小説家は、その言葉に気をとられながら、それでは隣りにゐる女も五十銭の口なのであらう、だから、十銭のものよりも格式を以て客に臨んでゐると云ふわけであらうと考へ、妙なところに、――人はどん底まで来ても、まだこれより卑しい下のものが存在するのだと自分を慰めて、高い心を失はないでゐることに、――感心してゐた。――しかし、相手の客は、嗄《しはが》れた声から察するとかなりの年配らしいが、なかなか承知しないと見え、争ひは益々烈しくなつて、果は彼らの身体が雨戸にぶつつかり、今にもその頼りなく、がたつくしきりは倒れさうに動くのであつた。――それをこちらの女は、実に無関心な表情で見てゐたが、暫くすると、お前はどうしても暴れる気か、それならば、ちよつとこちらへ来てくれと、別の男のへんに調子の低いおどかし声がして、ぐづねてゐたのは「よし、帰つたる、帰つたら文句ないやろ、五十銭かへせ」と喚《わめ》きちらし、女は女で息をはずませて癇高《かんだか》く――「一旦もろたもんが返せるもんか」なぞと叫びつつ、やがて、彼らはガタガタと階段をころがるやうに下りて行く音がした。――いや、階段は小説家の坐つてゐる側にあるし、そしてこの小さな家にそれが二つもあつたはずはないと、彼は怪しんで背延びをし、雨戸越しに、何やら取り散らけた喧嘩の現場を見るのであつた。すると、あちらの壁が無惨にくり抜かれてあつて、洗《あら》ひ晒《ざら》しの浴衣地《ゆかたぢ》をカーテンみたいにしたのが、汚く垂れさがつてゐ、隣家の二階と通じてゐるのが分つたのである。では、隣りも同様かうした宿になつてゐるのかと、彼は、そこに住んでゐた荒木と云ふ葬式人夫の一家や、恐しく出つ歯であつたが秀才で、今宮の職工学校に通つてゐた息子のことを思ひ浮べるのであつた。
 それから、女は小説家の顔をちらとのぞき、そこに敷きつぱなしになつてゐる薄く細長い、浅黄の蒲団の上に倒れて見せた。――彼はそれには及ばぬと、幾度も繰りかへして説明しなければならなかつた。しかし、女はなかなか承知せず、執拗に誘ひの言葉をかけるのである。彼女は、男とはそんなものではないと十分悟つてゐるやうにふるまつてゐたので、無為に金を払ふのを想像できなかつたのであらう。
「それではすんまへん――銭もろといて遊んでもらはなんだら」と、またも云ふのであつた。それは労なくして賃銀を受取ることを恥しく思ふけなげな心持からと云ふよりは、むしろ、彼が遊ばないのを口実に全額でなくとも、五十銭の何割かの払戻しを請求しはしまいかと、恐れたが故であつたやうだ。
「ほんまに、えらいすんまへんな」と、やつと彼女は納得して云つたが、それでもまだ――「ほんまにかましまへんか」と、尚も云ひながら、そこに坐り直すと、バットの箱から吸ひさしの煙草を出し、ちやうど彼がつけた燐寸《マツチ》の火に、頭をかがめて、吸いつけるのであつた。赤つぽい髪の毛や、垢ずんだ首の皺や襦袢《じゆばん》の襟が近づき――しかし、
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