と見え、ガラス戸を閉めて、白いカーテンを張りめぐらしてあるので、内らは覗けぬ。
 路地に入ると暗がりで、軒並みの家々の影も、永い年月が経つてゐる故、古びて歪《ゆが》んでゐるやうに思はれ、しかもどこもしんとして静かなのが、少し小説家にはよそよそしく感じられないでもなかつたが、懐しい場所に再び立入つたことで、彼の気持はすつかり満足してゐた。――自分が十二年もゐた家に、今は如何《どう》云ふ人が住み、如何云ふ生活がなされてゐるかと、想像するのは、甘い楽しみであつたから。
 すると、彼はその家の戸口に女が出て来たのを認めたのである。それは恐らく、そこのお神さんで、外出しようとするのだが、雨はまだ止まぬかと模様を見てゐるのだらうと、察した彼は、迂濶《うくわつ》に佇《たたず》んでゐたりして、不審がられるのを恐れ、わざと、もちろん軒燈もないから見えるはずもないが、隣家の表札に眼を近づけたりするのであつた。だが、それは無効であつたと云へる。女は片足を踏出すと、突然、彼の袂《たもと》を――それから身体全体を抱へるやうに掴《つかま》へて了つたのである。そこには必死な抵抗すべからざるものがあつた。驚きと怖れか
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