ら、小説家は身をもがいたが、慣れた――たしかにさうすることに慣れた、特殊な技巧のある女の両腕は強くて離れず、それではこの女は、とすぐに彼は気がつかぬでもなかつたものの、まだ半信半疑のうちに、もはや土間にひきずり込まれてゐて――そこに、昔の彼が顔を洗ひ水を飲んだ場所がちらと見えたかと思ふと、どんと揚板の上へあげられ、更にむりやりに尻を押されてつまづきさうになりながら階段に足がかかる時には、やつと一切を理解し得たので、少しの落ちつきも取りもどし「おい、さう押すなよ、危い」と、女の方を――化粧した吹出物のある顔を振りかへつて云ひ、それからひよいと正面に向き直ると――彼の眼には、二階への昇り下りにしめつぽい手垢ですつかり黒く汚れた壁の上に、まぎれもなく彼の筆になる尾上松之助の似顔絵がはつきりと残つてゐるのが、うつつたのである、うつると同時に一種の感慨に胸をせめつけられ、急に酸つぱい気持がこみあげて来て、不覚にも尾上松之助はぼうつとぼやけて了ひ、女に抗《さから》つてゐた身体の力もそのまま抜けて了つたやうな気がした。
女は、まだ雨しづくの垂れさうなコーモリ傘と泥を歯の間に挟んだ下駄とを敷居の上に
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