なく、がたつくしきりは倒れさうに動くのであつた。――それをこちらの女は、実に無関心な表情で見てゐたが、暫くすると、お前はどうしても暴れる気か、それならば、ちよつとこちらへ来てくれと、別の男のへんに調子の低いおどかし声がして、ぐづねてゐたのは「よし、帰つたる、帰つたら文句ないやろ、五十銭かへせ」と喚《わめ》きちらし、女は女で息をはずませて癇高《かんだか》く――「一旦もろたもんが返せるもんか」なぞと叫びつつ、やがて、彼らはガタガタと階段をころがるやうに下りて行く音がした。――いや、階段は小説家の坐つてゐる側にあるし、そしてこの小さな家にそれが二つもあつたはずはないと、彼は怪しんで背延びをし、雨戸越しに、何やら取り散らけた喧嘩の現場を見るのであつた。すると、あちらの壁が無惨にくり抜かれてあつて、洗《あら》ひ晒《ざら》しの浴衣地《ゆかたぢ》をカーテンみたいにしたのが、汚く垂れさがつてゐ、隣家の二階と通じてゐるのが分つたのである。では、隣りも同様かうした宿になつてゐるのかと、彼は、そこに住んでゐた荒木と云ふ葬式人夫の一家や、恐しく出つ歯であつたが秀才で、今宮の職工学校に通つてゐた息子のことを思ひ浮べるのであつた。
それから、女は小説家の顔をちらとのぞき、そこに敷きつぱなしになつてゐる薄く細長い、浅黄の蒲団の上に倒れて見せた。――彼はそれには及ばぬと、幾度も繰りかへして説明しなければならなかつた。しかし、女はなかなか承知せず、執拗に誘ひの言葉をかけるのである。彼女は、男とはそんなものではないと十分悟つてゐるやうにふるまつてゐたので、無為に金を払ふのを想像できなかつたのであらう。
「それではすんまへん――銭もろといて遊んでもらはなんだら」と、またも云ふのであつた。それは労なくして賃銀を受取ることを恥しく思ふけなげな心持からと云ふよりは、むしろ、彼が遊ばないのを口実に全額でなくとも、五十銭の何割かの払戻しを請求しはしまいかと、恐れたが故であつたやうだ。
「ほんまに、えらいすんまへんな」と、やつと彼女は納得して云つたが、それでもまだ――「ほんまにかましまへんか」と、尚も云ひながら、そこに坐り直すと、バットの箱から吸ひさしの煙草を出し、ちやうど彼がつけた燐寸《マツチ》の火に、頭をかがめて、吸いつけるのであつた。赤つぽい髪の毛や、垢ずんだ首の皺や襦袢《じゆばん》の襟が近づき――しかし、その時、彼は何か発見したやうな眼つきになり、ぢつと彼女の身体つきを検《しら》べ、眺め廻したのである。
女の煙草は短かかつたので、すぐになくなつた。小説家は自分の箱を荒れた畳の上に置いて、一本つけては如何《どう》かとすすめるのであつた。だが、女は女らしく遠慮して「五十銭ただもろて、その上、煙草のませてもろたりしては――それこそ冥加《みやうが》につきます」と、辞退して手をださなかつた。それ位いいぢやないかと、尚も彼が云ふと強情に身を引かんばかりにして、
「いいえ、いけまへん」と、しをらしい表情をして見せたが、急に彼は自分の観察が誤つてゐるか如何かをためしたくなつて、何の悪い気もなく、
「あんたは、女とちがふな」と云つたのである。それを相手は随分と意地悪くきいたかも知れなかつた。どうして、そんなこと云ひ出したのだらうと、暫くの間、女は彼の顔を見つめてゐた。それから、両手を揉むやうにして、下うつむいて、嘆息した。
「やつぱり――分りまつか」と云つて黙り込み、それでもまた勇気を取戻したのか、
「そやけど、今までに一ぺんも見現されたことはおまへなんだ、ほんまだつせ――兄さんにかかつてはじめて――わやくやな」と、てれ臭さうに、力を入れて云つた。
思つた通り男だつたのかと、小説家はうなづいたが、何とも分らぬ変な気持になつて――「ほう、そいで」と云ひ出すと、相手はその顔色を読んで、すぐ答へた。
「ええ、ちやんと、そいで商売してますねん、をなごとしてな」と奇妙な陳述をするのであつた。小説家は飽かず、この相手を見てゐると、そいつは、女でないと云ふことが明白になつてから今までと著しく態度を変へた。すぼめるやうにしてゐた肩も張り、
「ほんなら、一本いただきまつさ」と、遠慮を打捨て、手を出して煙草の箱を取つたが、その指も骨ばつて来たやうにさへ思へたのである。そして、
「もうとしですよつてに、身体が堅うなつてしもて――」と云ひ、問ひに応じて、二十歳であると云つた。
「まだ子供の時は、これでも綺麗や云うて、お客がたんとつきましてな――なんにも知らんとな」と、女のやうに口へ手をやつて笑つたが、急に煙草を揉み消すと、
「あんまり、ゆつくり、ここにをられまへん――何やつたら、わてのホースにおいでやすな」と、彼(女)は小説家が奇怪な話に興味を持ち出したのを知つてさう誘ひ、ここでは部屋代をとられる故、散
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