と見え、ガラス戸を閉めて、白いカーテンを張りめぐらしてあるので、内らは覗けぬ。
 路地に入ると暗がりで、軒並みの家々の影も、永い年月が経つてゐる故、古びて歪《ゆが》んでゐるやうに思はれ、しかもどこもしんとして静かなのが、少し小説家にはよそよそしく感じられないでもなかつたが、懐しい場所に再び立入つたことで、彼の気持はすつかり満足してゐた。――自分が十二年もゐた家に、今は如何《どう》云ふ人が住み、如何云ふ生活がなされてゐるかと、想像するのは、甘い楽しみであつたから。
 すると、彼はその家の戸口に女が出て来たのを認めたのである。それは恐らく、そこのお神さんで、外出しようとするのだが、雨はまだ止まぬかと模様を見てゐるのだらうと、察した彼は、迂濶《うくわつ》に佇《たたず》んでゐたりして、不審がられるのを恐れ、わざと、もちろん軒燈もないから見えるはずもないが、隣家の表札に眼を近づけたりするのであつた。だが、それは無効であつたと云へる。女は片足を踏出すと、突然、彼の袂《たもと》を――それから身体全体を抱へるやうに掴《つかま》へて了つたのである。そこには必死な抵抗すべからざるものがあつた。驚きと怖れから、小説家は身をもがいたが、慣れた――たしかにさうすることに慣れた、特殊な技巧のある女の両腕は強くて離れず、それではこの女は、とすぐに彼は気がつかぬでもなかつたものの、まだ半信半疑のうちに、もはや土間にひきずり込まれてゐて――そこに、昔の彼が顔を洗ひ水を飲んだ場所がちらと見えたかと思ふと、どんと揚板の上へあげられ、更にむりやりに尻を押されてつまづきさうになりながら階段に足がかかる時には、やつと一切を理解し得たので、少しの落ちつきも取りもどし「おい、さう押すなよ、危い」と、女の方を――化粧した吹出物のある顔を振りかへつて云ひ、それからひよいと正面に向き直ると――彼の眼には、二階への昇り下りにしめつぽい手垢ですつかり黒く汚れた壁の上に、まぎれもなく彼の筆になる尾上松之助の似顔絵がはつきりと残つてゐるのが、うつつたのである、うつると同時に一種の感慨に胸をせめつけられ、急に酸つぱい気持がこみあげて来て、不覚にも尾上松之助はぼうつとぼやけて了ひ、女に抗《さから》つてゐた身体の力もそのまま抜けて了つたやうな気がした。
 女は、まだ雨しづくの垂れさうなコーモリ傘と泥を歯の間に挟んだ下駄とを敷居の上に寝かせてから、高くつつた黄色い電燈の光を裏から受けてゐるので埃の浮いて見える歪《いび》つな日本髪の頭を傾け、彼の様子を――今にも泣出さんばかりのその表情を、けげんさうに、打守るのであつた。もちろん彼女には訳はわからず、この何と云ふ気弱な男であらう、淫売婦に有無を云はさず乱暴に引張りあげられたのを、どぎもを抜かれ、後悔してゐるのかと、考へたかも知れぬ。そこで彼女も呆気《あつけ》にとられ、ぽかんとした顔で、寒さに歯をガチガチと打鳴らしながら、
「すんまへん」と、云つた。――それから、気の毒さうに、彼の方へ掌を差出したのである。
 小説家は、彼がこの家で生れたこと、あすこに見えるあの落書こそは彼の手になるものであること、しかも、思ひ出の積つてゐるその建物は、今は淫売婦の仕事場になつてゐること――それらを、彼女の前に語り出したくなつたほど、感傷に溺れきつてゐた故、女の請求をはねつけるだけの勇気もなく、一体何ほど与へればよいか、と細い声で質問するのであつた。
「すんまへん」と、また彼女はあやまるやうに云ひ、――「五十銭やつとくなはれ」と態度は優しく嘆願するのであるが、その精神には、今にも彼の懐中に手をさし入れるばかりの執念深さがあつた。
 彼が、どうかして母や弟妹をこの窮乏から救ひ出したいものと、来る日も来る日も考へつめてゐたこの六畳の部屋は、薄い雨戸を真中に立てて、二つに区切られてゐ、あちら側にも人の動く気配《けはひ》があつたが、ちやうどその時、その中から口争ひをはじめた男と女の声が聞えて来たのである。
 ――女の声がののしるには「そんなあほらしいことできるかいな――そんなことはなア、十銭淫売のとこでも云うとくなはれ、うちはちとちがふ!」と、云ひ、見そこなつては困る、あほたんめと、附け加へるのであつた。――小説家は、その言葉に気をとられながら、それでは隣りにゐる女も五十銭の口なのであらう、だから、十銭のものよりも格式を以て客に臨んでゐると云ふわけであらうと考へ、妙なところに、――人はどん底まで来ても、まだこれより卑しい下のものが存在するのだと自分を慰めて、高い心を失はないでゐることに、――感心してゐた。――しかし、相手の客は、嗄《しはが》れた声から察するとかなりの年配らしいが、なかなか承知しないと見え、争ひは益々烈しくなつて、果は彼らの身体が雨戸にぶつつかり、今にもその頼り
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