財をかけては済まぬ、自分のところへ来い、と云ふのである。「ホース」と云ふは、「ハウス」か「ホーム」の訛《なま》りであるらしかつた。――
「すぐ、そこだす、第二愛知屋だす」
 そこで、小説家は偶然なことから、彼の懐古心を満足させ得たことを思ひ起し、今更のやうに、感慨深く部屋を見廻し、玩味し、剥げた壁や畳に、もはやかうした宿らしく人間の汁液が浸込み饐《す》えた臭ひがこもつてゐるのや、天井の薄い板もところどころ外れて垂れさがつてゐるのを、認めるのであつた。そして、再びその部屋を、楽書を見ることはなからう、と思つた。
 れいの女装の男は階下へ、彼のために傘と下駄とを持つて行き、破れた障子の中へ首を突込むと、中の者に何やら云ひ、それから大きな声で、「おほきに」と、挨拶して彼を促して、外へ出た。
 表通の方へは行かず「こつちから」と、路地の奥を突抜けると、木柵があつて南海鉄道のレールが走つてゐ、ずつと遠く天王寺公園に当つて、エッフェル塔のイルミネションが、暗い空に光を投げてゐる。――その黒い木柵の間を、彼(女)は着物も長襦袢もたくしあげて跨《また》ぎ、危うおまつせ、と彼のために傘を持つてやつて、案内するやうに云ふのであるが、もとより、小説家は子供の時に、そのレールの上に針金を寝かせ、電車の車輪にしかせてペチヤンコにしたり(彼はそれでナイフを作らうとしたのである)石を積みあげて、食物や道具を一ぱい載せてゐるにちがひない貨物車の顛覆《てんぷく》を企てたことがある位だから、必ずしも見知らぬ場所であるとは云へなかつた。北の方から電車が進んで来、警笛を鳴らし、蒼白《あをじろ》く烈しいヘッドライトはそれを避ける彼らの影を、雨に濡れた軌道の小石の上に大きく振廻すのであつた。越えると空地があり――その暗い中に、何やら人のざわめきがし、群れ集つてゐる気配があつた。
「轢死人《れきしにん》があつたんか知らん」と、女装の男は云つた。――
(ここで、もう一度、小説家の煩《わづらは》しい回想を許してやりたいと思ふ。かつて、このあたりではよく人々が轢《ひ》き殺された、彼らの生命が安かつたせゐかも知れぬ。夜更けてけたたましい警笛が長く尾を引いて鳴り、急停車する地響きがあると、仕事をしてゐる手を休めて、彼の母親は「また誰ぞ死んだ」と云つたものである。その時は身に迫るやうな寂しさを子供は感じた。そして、朝になると、今彼らの眼の前にある広場に蓆《むしろ》のかけられた血のしたたる屍骸が横たはつて、検死の済むのを待つてゐた。多くは無一物で、生きても死んでゐる者たちであつたが、ある冬の朝、近所のお神さんたちは、昨夜の轢死人は懐中に十円もの金を持つてゐたと噂し、そんな大金を持つてゐながら、どうしてまた死ぬ気になつたのであらうと語つてゐたので、それを聞いてゐた子供たちは大急ぎで柵をくぐり抜け、もしや、その不要な金を子供たちに分けてくれはせぬかと、一散に走つて行つたことである。)――
 処々高低のある、雨で軟くなつた土をごぼごぼと踏んで、彼らは、人だかりの方へ近づいた。外套をすつぽり着た巡査が懐中電燈を照して色々と命令し、人夫風の男が、ぐつたりした老人の大きな身体を、寝台車に担ぎ込まうとしてゐた。それはトルストイのやうな顔をし、白い鬚《ひげ》を長く延ばした爺さんであつたが、なかなか重いと見え、人夫は白い息をふうふうと吐いて少し手古《てこ》ずり、すると、人々の間から、白けた絆纏《はんてん》の浮浪者が出て――「爺さん、しつかりせえよ」と声をかけて片足をかつぎ、黒い布被《ぬのおほ》ひのある車へ載せるのであつた。そして、力なくだらりと垂れた老人の足からは、竹の皮の冷飯草履がぬげて落ち、垢ぎれでひび割れた大きなその足裏が気味悪く、懐中電燈の光にうつし出されるのであつたが、れいの浮浪者は逸早《いちはや》く、草履を自分の足に――彼ははだしだつたので、ひつかけた。すると、巡査は癪にさはつたやうに、「おい、おい」と頤《あご》を振つて注意し、――「そら、病院のや、いれとけ、いれとけ」と叱つた。浮浪者はすなほに、その病院の名らしく焼印のおされてある草履をぬぐと、肘《ひぢ》で拭ふのであつた。何故なら、すでに彼の足の泥がつき、濡れて了つてゐたのである。少してれて、それを老人の足指にはめようとしたが、すぐ落ちてダメなので、人夫は黙つてひつたくり、車の底へ押込んだ。
「兵隊辰やな」と、女装の男は、癖で歯をガチガチ寒さうにならしながら、小説家に説明して云つた。その声に、巡査はちらと、こちらを見たが、人夫が寝台車の梶棒を握つて立ち上ると、「爺さん、もう戻つてくれるな」と云つた。さつきの浮浪者はそれに応じて、「旦那、兵隊辰はもう二度とここへ帰つてけえしまへん――今さき、触つたらもう冷たうおました」と低く云つたが、巡査は苦
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
武田 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング