々しい顔をした。――「困つたやつちや――わしの責任になるがな」そして、今まで、爺さんの寝臥してゐた蓆《むしろ》を靴の先で蹴り飛ばした。
車はゆつくりと去つて了ひ、人々も散るのであつた。あとには、雨が再び寒く降りはじめ、女装は、
「おお寒むやこと、すつかり冷えこんでしもたわ」と、云つた。広場はもとの静けさに戻り、あちらこちらに火が燃え、雨の中に明るさが溶けて見えるのである。それは浮浪者たちが、大きな穴を掘り、その中で物を――塵芥を燃しながら、その白つぽいむせかへるやうな煙の横に、うづくまつて、眠りをとつてゐるのであつた。
「今晩は」などと、その穴の側を通りながら、小説家の同伴者は声をかけ、
「降つて困りまんな」と云ふのである。
兵隊辰とは――歩きつつ、彼(女)が語つたところによると、以前は軍人で、日清日露も両方とも出征して勲章を貰つたが、心臓を患《わづら》ひ、子供身寄もなくて、ここまで零落したのである。最近は殊に衰へ、寝込んでゐたので附近の宿なしたちが心配して、慈善病院に入れるやう「旦那」に交渉し、そして入れたのであつたが、すぐと、不自由な身体をひきずつて、この空地へ立ち戻つて来た、驚いて連れて行くと、また、ひよろひよろと帰つて来、それを再三再四繰りかへしてゐたと、云ふ。
「なんでや」と、小説家はたづねた。彼は、さうした慈善病院の官僚的な冷い有様や、堅い寝心地の悪い木のベッドよりも、弱つた神経のうちから馴れた野宿を思ひ出すあの浮浪者魂のことを、考へてゐたにちがひない。
しかし、相手は、
「なんでだつしやろな」と無関心に答へ――「寒い、寒い、――兄さん、お酒はどうだす」と、云ふのであつた。なるほど、広場を過ぎたところに、焼酎屋があつたが、彼は、「さあ、金があるか知らん」と心配すると、
「いや、大丈夫」と、女装は力を入れて「おます」と、勝ち誇つた。先程、小説家が彼に五十銭与へた時、その財布の中を、のぞいて数へて了つたのだと云つた。それは商売からして、無意識に行ふのである。
――油障子を半分だけ閉めた中の、二すぢの長いテーブルには、人々が――ボタンのない外套の上から縄をしめたのや、羽織もなく寒々とした黄色い顔の男や、絆纏《はんてん》にゲートルを巻いて、何か知らぬが大きな風呂敷包を腰にくくりつけたのや、眼脂《めやに》で眼蓋《まぶた》のくつつきさうになり、着物の黒襟が汚れてピカピカに光つてゐる女やら、――みんなすでに酔払つてゐて、頭を重く垂れ、時々あげてあたりを睨むと訳の分らぬ叫びをあげて会話し――一切が不健康に濁り、空気は淀んで腐つてゐるやうに見えた。小説家と女装の男とは、あいたところに腰をかけ、値段書のぶらさげてある背後の羽目板にもたれ急に冷くなつた足先を土間で踏みならしながら、店のものが大きなコップに焼酎をつぐ手許をぢつと見るのであつた。透明な液体は溢れて、木目のはつきりした汚いテーブルの上に流れると、女装は口を近づけて吸込み、舌なめずりするのである。更に彼は媚びるやうに小説家を見てから、艶つぽい声で店員に註文を発すると、豚の腎臓をそのまま薄く切つたのが塩を副《そ》へて持つて来られ、彼(女)は指でそのべろべろした血のかたまりみたいなものを、つまみあげて、彼に、
「どうだす、ひとつ」と云ふのであつた。――「ちよつと臭《かざ》がしますけど、通人の食べものだつせ」
さうかも知れぬ。しかし、小説家は手を出すことをしなかつた。
やがて、簡単に酔ひが身体に廻ると、昂奮して女装は、多弁になり、ハンカチを出して胸にあてたりして、口惜しがるのであつた。それは、またしても、彼(女)が今まで本当は男であるのを発見されたこともなく、――また真実女であつて、その他の何ものでもないと、自分自身も永い間信じきつてゐたと云ふことで、縷々《るる》としてつきなかつた。彼(女)はその日常生活の末々端々にいたるまで女子として行動し――そして売春婦として存在することによつて、一家三人が第二愛知屋(木賃宿)に一部屋を借り受けてこの数年暮しを立てて来、もちろん、その弟で十四歳になるのも昨年あたりから女になつて、客をとることを覚え、彼らの母親はかなり楽になつたが、――
「やつぱり歳のすけないのは、骨がやはらかいし、肉もしまつてまへんよつてに、もうわてらと較べもんにならん位、よう売れます」と、感心して、彼は云つた。その弟が先日警察の手入れであげられ――そこで、肉体を発見され、釈放される時には、折角延ばして結つてあつた髪の毛を短く刈取られて了つた。――「早う生えてくれんと、商売でけしまへん、ほんまに無茶しよる」と、彼は憤慨して抗議した。「そんなことする罰は法律にはないさうだす」と、彼は知合の――同じく第二愛知屋に宿泊してゐる弁護士(!)に聞いたと云つた。色々と話の末、彼(
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