たが、誰も不思議にも思はず、眠つてゐる者たちを驚かさないやうにと、跫音《あしおと》を忍んで、部屋を出、やうやく白んで来た空を仰ぎながら、その「仕事」に出かけた彼を想像するのであつた。
 ――それは三畳に足らぬ部屋であつた。押入はなく、埃で白い二三の風呂敷包、バスケット、土釜、鍋鉢の炊事道具の類、それに小さな置鏡、化粧水の瓶なぞが棚を吊つて載せられてあり、壁にはりつけられ、一方の隅の破れてゐる新聞附録ものらしい美人画は、彼ら兄弟の扮装のモデルであらう。
 彼らと雖《いへど》も労働者の子供たちであつた。「田舎から来た鍛冶屋だす」と、小説家の問ひに対して答へ、父親の働いてゐた日の出鋳物工場は今でもこの近くにあるが、彼は早く火傷で倒れ、母親も白粉工場に永年つとめ、そのために中毒を起して片手はまるきり動かぬ、と云ふ。――地方から都会に出て来た労働者が、すでにその二代目に於て、貧窮と不衛生と無知とによつて腐つて了ひ、かうした人間の破産状態のうちに生活してゐるわけである。
 朝になると、小説家は、もはや彼らと別れを告ぐべきであると思ひ、猫みたいに荒い銀色のヒゲの二三本生えてゐる老婆の顔を見ながら、女装の男に、昨夜の部屋代の一部を負担しようと申出た。すると、彼女は手を振り、口を押へて笑ひながら、
「それはもう、ちやんと、兄さんがお寝《やす》みのうちに、もろときました」と、云つた。ひよつとして、小説家がそのことに気が附かずに帰られては、と彼(女)は恐れたのであらう。
「いくら抜いた」ときけば、「五十銭」と返事した。
 母親は「御飯でも食べて行つとくなはれ」と、お世辞を云つたが、それは嘘であらう。
 雨はあがつた、しかし、陽の光は射さなかつた。――小説家は表へ出ると、昨夜の出来事や、逢つた人々を思ひ出さうとしたのだが、何だか、ぼんやりとしか浮びあがらなかつた。電車の狭いガード下で、そこは誰彼となしに小便すると見え、コンクリートは湿気で壊れ、白い黴《かび》やうのものがひろがつてゐるが、烈しい臭気に彼も亦、そのことに気がついて、小口貸金手軽に御用立てます、と云ふ広告を読みながら、排泄するのであつた。そこを抜けると無料宿泊所があり、そのあたりには、午前中からもう夜の宿の心配をしなければならぬ浮浪者たちが、いつでも事務員が出て来て受附けるならば、すぐ列を作つてならべるやうに支度をして――蹲《う
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