はほんまにうまい」とほめて、そんな店を潰すに忍びないと云ふやうな顔をした。
話が終ると、突然、外套は「おほきに、御馳走さん」と云ふなり、眠つた低い家々の間を、そこには雨の中に傘をさして淫売婦たちが辻々に立つてゐるのであつたが――駈出したのである。
「待て!」と、小説家は呶鳴つた。寝るところがあるか、と心配したのである。
「今夜は、腹も張つたし、酒ものんで、ええ塩梅《あんばい》やよつてに、その勢ひで野宿《でんでん》する」と、相手は答へ、尚も走りつづけようとした。
「待て!」と再び小説家は云つて、幸ひこの「女」がすすめるから、一しよに第二愛知屋に泊らう、と誘ふのであつた。
すると、不思議なことが起つた。――今まで、いやに辛く女装に当つてゐた外套は急に叮嚀な言葉づかひになり、「姉ちやん、えらいすんまへんな、屋根代もなしに、厄介になつたりしまして」と挨拶するのである。――思ふに彼は彼の逃げた細君以来、女にはよからぬ感情を抱いてゐたので、自然、女装に対しても冷かな態度を取つてゐたが、今は彼(女)は部屋主《まどもち》になつたので、その点から礼儀をつくしたのである。
その証拠には、彼が彼女の「ホース」に行きついてからは――大戸をガラリとあけて女装が帳場に坐つてゐるキナ臭い中年の男に「頼んまつせ」と申入れた時も、うしろについて彼はぺこぺこと頭をさげたし、また広い階段の途中ですれちがひ、彼(女)から、「今晩は」と、呼びかけた、赤い顔に髭《ひげ》を蓄へた、しかし、口のあたりに何やら卑しい腫物《はれもの》の出てゐる、袴をはいた男にも、外套は腰を折らんばかりにお辞儀するのであつた。その袴の男を、あれが、弁護士だす、と女装は云つてきかせた。――
彼(女)の部屋では、浮浪者は益々小さくなつて隅の方に坐り、しきりとボタンのない破れ外套の前を合せ、巻いた藁縄をはづかしさうに触つて見るのである。そしてすでに寝てゐる弟や(なるほどその髪の毛は最近に散切《ざんぎ》りにされたあとがあつたが、少し延びかかつてゐ、ちやんと女風の長襦袢の肩を見せて眠り、日頃のたしなみを見せてゐた)また母親に(彼女は二人の外来者を無言のままじろじろと観察した)――突然夜半に訪れたことを、幾度も繰りかへして謝するのであつた。――
それほどだつたから、朝になり、みんなが眼ざめた時、すでに遠慮深い彼の姿は消えて、見られなかつ
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