と、壁に張つた紙ぎれを読んで云ふのであつた。
絣《かすり》の筒袖《つつそで》を着、汚れてはゐるが白の前掛をかけ、茶つぽい首巻をした主人は、煤の垂れさがつてゐる、釜の側で、煙管《きせる》をくはへてゐたが、
「こら、あしたや、けふはあかん」と、ぶつきら棒に返事した。
「あしたやて、ふん、あしたと云ふ日があるならば」と浮浪者は節をつけて応酬をして、「こら、見い、もうぢき、十二時やぞ、そしたら、あしたや、待つてたろ」と、箸をあげて、棚に置かれてある、アラビヤ数字のいやに大きいニッケルの眼ざまし時計を、指すのであつた。主人は冷く、相手にしなかつたので、彼はまた呶鳴りちらした。
「こら、わいの云ふことが分らんか、こら、人殺しめ!」
「なに云ひなはんねん、そんなこと」と、女装が驚いて制止すると、
「うるさい、女は黙つとれ」と、彼は邪慳《じやけん》に唸つた。それでも、主人は身動きもせず、白い眼で見るだけで、――その眼が 「このルンペンめ、そんなこと云ふと、もう、うちの粥食はさんぞ」と云つてゐるやうに見えたので、外套は、がくりと首を垂れ、
「いや、ほんなら、芋粥お代り」とおとなしく云つて、うまさうに、かぶりつくのであつた。――
彼が粥屋の主人に向つて、人殺しと罵つたのは、何も理由のないことではなかつた。その店を出ると、そんなことを云ふなと止めたくせに女装の男が先に立つて、問ひもせぬに小説家に語つた所によると、――もう二年前にもなるが、その秋のちやうど夕飯頃、あの店が粥を食ふ零落者で混んでゐた時、ある男が(外套は、あら、田辺音松や、やつぱりわいの友だちや、と云つた)――その田辺が二銭払つて出ようとすると、主人は三銭置いて行けと請求し、何故かと聞けば、一銭の漬物を食つたから、と云ふので、田辺は驚き、いや、そんな覚えはない、と云ひ張り、この漬物皿は横にゐたやつが平げたのやと述べたが、主人は更に聞き入れず「食つた」「食はぬ」と争ひになり、果は、田辺がどんと胸をつかれると、悪いことに空き腹がつづいて力の抜けてゐた彼は、そのまま仰向けに倒れて敷石で頭を打ち――そして、もう二度と動かなかつたのである。調べた結果、頭蓋骨が折れたのが死因と分つた。もちろん傷害致死で主人は行つたが、それも三四ケ月すると、もう店を開いてゐたと云ふ。――外套は力んで、「今に仇をとつたる」と云ひ、「そやけど、あすこの芋粥
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