と、語り出した。――彼らはどんなに空き腹を抱へてゐても、人にめしを食はせてくれ、とは云へないのであつた。何故ならば、誰も彼も自分だけが食ふのが精一ぱいで余裕は更にないので、しかも頼まれたら、すぐに足りないものも半分は分けてやらねばならず、――だから、そんな人の予定を狂はし迷惑かけるやうな依頼心を起すのは道徳的ではないと、されてゐる。そして、もしも誰かが景気よくて(景気よくて!)すつかり気が大きくなり、おい、酒のませたろかと誘はれた時にも「酒の代りに飯をおごつてくれ」とは云へないものだ、と外套はしみじみ述懐した。それは一つには、虚栄心もあつたし、また折角相手が酒で愉快になつてゐる気分をぶちこはすに忍びないからであつた。だから、今夜のやうに酒だけで腹をこしらへてゐる時もある!
「兄貴、酒おごらんか、は云へます、そやけど、云へまつか、めし一ぱい頼むとは」と彼が云へば、夜更けの酔払ひたちは口々に、「さうは云へん、云へんもんぢや」と、首を振るのであつた。――小説家は、そこに浮浪者につきものの、さやうな貴族精神を見て、悲しく思ひ――さう云ふはなしを俺にするからには、俺にめしをねだつてゐるのだらう、と云ふと、
「あたりました」と答へ、なんでや、見栄があるやろ、とからかふと、「あんたは、旦那やよつてに、かめへん」と、尚も小説家を悲しませるのである。
それから雨中に、のれんを排して出た女装の男は、頬に雨滴をあてて、
「おお、冷《ひや》こ、ええ気持やこと!」と叫び、酒にまかせて外套の浮浪者にしなだれかかると――「ちつ! わいは女はきらひや」と、彼は忌々しげに舌打ちし、その手を払つて、どんどん先に立つて行くのであつた。
「上等の店、おごつて貰ひまつせ」と、彼は云つて木賃宿の裏手の狭い道を――そこから薄暗い部屋に親子夫婦たちがくるまるやうにして寝てゐるのが煤《すす》けた格子窓越しにのぞかれ、また戸締りのしてない裏木戸からは、列んだ便所の戸がどれも開いてゐるのが、陰気臭く見えるのであつた。
めざす店はまだ起きてゐた。
「芋粥《いもがゆ》くれ、おつさん」と、外套は呶鳴つた。吹きながら、人々の手垢で黒くなり、塗りの剥げた箸で、煮込のやうな粥を咽喉に通しながら――「なんやて、明日ハ十五日ニツキ アヅキガイ二銭モチ入アヅキガイ三銭――よし来た、おつさん、今晩は旦那がついてる、餅入小豆粥一つ呉れ」
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