ので、すぐにそのまま引返して、離縁しようかと一時は考へたが、せつかく人手を煩《わづら》はし、世話して貰つたのにと、胸を撫でて我慢した――それがいけなかつた、やはり、新聞の一つも読まうかと云ふ女は「学問」を鼻にかけ、他に男をこしらへて出奔して了ひ、自分の観測に誤りなかつたことを思ひ知らねばならぬやうな始末になつたのである。――
「ああ、やけぢや」と、彼は結んだ。
「兄さん、大分廻つてる、苦しさうや」と、女装は云つた。すると、
「あたりまへや」と、何故か彼は「女」には荒々しく云ひ、もう二日も前から飯を食つてゐないことを告白して、青い顔をした。小説家は、もしさうなら、如何に酒好きであるにしろ、焼酎なぞ飲む金で何故腹をこしらへなかつたか、と責めるのである。ひよつとすると、これは昔このあたりによく見かけたアルコール中毒かも知れぬ、と彼は考へた。
すると、外套の男は腰紐代りの縄に手を入れ、しごきながら、
「ほんまのこと云うたろか」と云ふのであつた。小説家は云つてくれと云ふ顔をした。
「そりやさうや、さうや、旦那の云ふ通りや、誰が銭持つてたら、空き腹に酒なんかあふるもんか、米のめしがほんまに恋しうてならんわ――をとつひも飯食うたんやあらしまへん、観照寺で接待ある云うよつてに、伊原つれて出かけたら、それが、うどんの接待だす、伊原にお前わいに半分残しとけ云うたのに、あの狸め、ちよつとも余さんと食うて了ひよる――なア旦那、大体伊原に、観照寺で接待あるよつてに行こか云うて誘うたのはわいだつせ、知らんとゐたらうどん一すぢも口に入らんとこや、なア、そやのに、恩知らずめが、どうだす、礼儀の知らんこと、後輩の癖にわいより先にお汁をかけて、ちよつと残しといてと頼んどいたのに、どんぶり鉢のはしも噛る位綺麗に食うて了ひやがんね、――それからと云ふものは、まる二日、仕事もないし!」
彼の後輩である伊原が何ものであるかも、また彼の仕事がどんなものであるかも、酔払ひは説明しなかつたが、そのたどたどしい独白に、この店の中で、強い焼酎に痺《しび》れた頭をかかへたものたちは、ひそかに白い吐息をして、耳を傾けたのである。
「わいは、何のはなししてたんやつたかいな、――そやそや、旦那は酒飲む金で飯食へと説教してくれはつたんやつたな、どうも、おほきに」と皮肉に口を歪《ゆが》め、「そやけど、ほんまのことを云ふとやな」
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
武田 麟太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング