はあまり頭がづきんづきんするので、よして独りでことこととそこいらを片付けてゐた。
「おしげ」と旦那が呼んだ、――「話があるから、あとで来てくれ」
若い夫婦の部屋は離れになつてゐた、雨の中を小走りに行き、濡れた髪の毛に触つて見てから、
「ごめんなさい」と、障子を開いた、お神さんは今夜も品川から帰れぬと電話があつて、豊太郎が一人で、三味線や置きものをうしろに、火鉢に手をかざしてゐた。
「お入り」
彼は何故か苦が笑ひをしてゐた、火鉢の前においでと云つて、
「――何だつてね、福ずしがお前をほしがつてるんだつてね」
「さア、よく知らないんですけど――」
「さうかい」と、煙草を取りあげた。
「あいつがお前に何とか云つたら、承知するつもりなんだね」
「――いやだわそんなこと」
おしげはむきになり、言葉づかひを忘れて、打ち消した。
豊太郎はうなづいた、それから、調子をかへて静かに云ひ出したのだ。
「――笑はないで聞いてくれ、本当を打ちあけると、私は随分以前から、お前が好きだつたのだ。けれど、主人を笠に云ひ寄つたなぞと思はれるのも業腹《ごふはら》だから、ぢつと押へて黙つてゐた」
おしげは、常日頃客たちとふざけて、際どい冗談も平気で云つてゐたが、こんな風に二人だけゐて、真面目に手を取らんばかりにされた経験はなかつた、どうしていいのか迷つて了ひ、があんと耳鳴りするのに、心はうろうろするばかりであつた。
「一生云はないつもりでゐた、――ところが、今夜、福ずしのことを知つて了つたんだ、さうなると、私もおとなしく引込んでゐるわけにはいかない、私は福ずしとは昔から含みあつた仲だ、私にも意地があると云ふものだ」
おしげはうなだれて、唯わくわくとしてゐたが、意地と云ふ言葉にその胸をつかれた、ほろにがいものが走つた。
「――私の気持を――」と、尚も豊太郎はやさしく云つてゐた、おしげは、どうでもなれ、と新吉たちの姿を眼の底に焼きつけながら、彼のなすままに委《まか》せた、女蕩《をんなたら》しの旦那に誘惑されるのもお前たちの罪だぞと一生懸命に罵りつづけて、堕落してやるぞ、堕落してやるぞと思つた。
おしげは旦那を別に好いてはゐなかつた、どちらかと云えば、生白くにやけて、毛髪の薄く眉目《びもく》なぞも、はつきりしないやさ男ぶりは、気に入らなかつた、お神さんや、他の女たちにべたべたするのも、男らしくなくて、あき足らなかつた、――普通ならば、いかに手練手管《てれんてくだ》を弄されても、身を投げかけることはしなかつたかも知れない。
さうした事件があつてからは、彼女は豊太郎にふと愛情を抱きはじめてゐる自分を発見してびつくりした、おつねが帰つてゐるので、二人だけで逢ふ機会はなかつた、何かの調子で眼があつたりすると、彼女は動揺して、彼の方に惹きずられる力を感じた、彼を見る眼はねつつこく光つてゐるやうな気がした、おつねがいい世話女房らしく立ち廻つてゐるのに軽い嫉妬も湧いて、しかし、そんな自分が忌々《いまいま》しかつた、――もとより豊太郎は色好みとの噂通り、その場の戯れにすぎなかつたであらうと最初からあきらめてゐるので、さうした彼に対する気持も根強いものではなく、その日その日にとりまぎれて了つた。
十一月に入つた日、裏口へ塵芥《ごみ》を捨てに行くと、離れから起き出たばかりの豊太郎が顔を洗つてゐた。
「おい、ちよつと袖を持つてくれ」
お神さんは何をしてゐるのかと、おしげは見廻してから、云はれる通りにした、すむと、これを蔵《しま》つてと歯磨類を手渡し、薄暗い台所の鏡に向つて髪に油を塗りはじめた、そのうしろを、狭いので身体を横にして抜けようとした時、豊太郎はとつさに振向いて、おしげを抱いた、本能的にすくんだ彼女をしめつけて、四日の晩、初酉《はつとり》に連れてつてやるよ、店をしまつたら、花屋敷の側で待つてな、と囁《ささや》くのであつた。
彼女は店に出て、テーブルにからぶきんをかけてゐたが、豊太郎の腕がいつまでも胸を圧さへてゐるやうで、その温《ぬくも》りさへ着物についてゐるのではないかと、自分の手をあてて見たりした、――やはり一途《いちづ》に悦ばしかつたのだ、しかし旦那がああ云つたけど、一しよに行つていいものかどうか、話をして見たくもあり、もう綺麗|薩張《さつぱ》り忘れて了ひたくもあつた。
彼女の横で、ぶくぶくに肥えたおふぢが、
「しげちやんたちはいいわ、――お酒のみの相手をしてられて陽気で、ああ、私もお店に出たい」と、独り言を云つてゐた、彼女は容貌が醜いので、板場の手伝ひをさせられてゐて、それが不平で仕方がなかつたのだ。
「え」と、おしげは考へを破られて聞きとがめた。
○
おきよが目撃したと云ふのはこの朝のことなのだらう。
彼女はおしげを煽《おだ》てて、
「私が都合つけたげるから、外で逢つてもいいのよ」と、まで云つた。
おしげは、最後まで遂に、そんなことと笑つて、事実を告げなかつた。
「――まア、これはここだけの話、とにかく、私もその気だから、あんたもねえ」
もう一度念を押して、おいくらと、おきよは金を払ふのであつた。
おしげは、おきよに焚きつけられて、うかとすれば、そんな気にならないでもなかつたが、この姉娘に対するより深い反感がやつと堰《せき》になつてゐた。
四日はひるすぎから、またしても小雨になつた、もつとどしや降りに降つて了へばいいと、何やら決心のつかぬのが、それで決定されると頼みにした、雨が云ひわけになる、寂びしい花屋敷前が眼にうつるのだ。
宵の稍々《やや》手すきの頃、秀《しう》ちやんとみんなで親しく呼んでゐる青年が来た、おしげは、ああ、この人がゐたのを忘れてゐたと、すがりつきたい思ひがした。
彼は母親たちが間借りしてゐる足袋屋の息子であつた、私立大学を出て、別にすることもなく家業の手伝ひはほんの申しわけで、遊んでゐた、底抜けの酒飲みで、はじめると夜が明けるまで盃を放さなかつた。
「どうしたの」と、おしげは、むすぼれて縺《もつ》れてゐたものが解けかかつたやうにほつとした表情で、彼の側に寄つた。
「何が」
「何がつて――」と、彼女は困つて、尻下りのあまえた声を出した、――どうしたのとは、自分のことで自分に云つたのだと気づいたからであつた。
「――ほら、母あちやんがさ」
むつつりした秀一は、じろりとおしげを見た、――彼は先日、本当か嘘か酔つた拍子に、君の母あちやんに惚れたよ、と放言したことがあつた、何云つてんのよ、あんな年よりにと茶化しかかつたが、その時思ひかへして、それ冗談なんでしよ、と詰め寄せた、すると、真顔になつて、冗談ぢやないよ、と云ひ切り、おしげが、無理しないがいいわ、と云つても、次から次へと空の銚子を振つて催促したものだ。
後になつて、秀ちやんが新吉から母あちやんを奪つてくれれば、助かるだらうと夢のやうな願ひごとをしはじめてゐた、彼が「たむら」へ来るたびに、けふは母あちやんとどんな話をしたの、一しよに活動へ連れてつたげてよう、なぞと云つて、どれだけおはまと交渉を持つてゐるかを探らうとした。
「母あちやんだつて、秀ちやん好きよ、きつと、――私にはよく判るの」
「判るもんか」
月始めから、新吉はてきやの連中と大阪へ旅立つたと聞いたのも彼からであつた、――おしげはまるでおはまのところへよりつかなかつたのだ。
「さう、――ぢや、鬼のゐぬ間の洗濯ね」
「うん」
何気なく聞き流したその「うん」が彼女にも意外であつたが、おしげに影響してゐた、早速、次の日、一時間ばかりですませますからと、象潟町へ久しぶりに訪れた、二階では、夜番のおはまは臥てゐたが、顔を見るなり、秀ちやんはけふゐないの、とたづねるのであつた、何だい、お前なの、びつくりしたよ、と起きる母親に、重ねて、秀ちやんが何か云つてた、とまくし立てた。
ぢつと眼を離さずに、母親の様子からも、秀一との間を嗅ぎ出さうとしてゐた、若い頃から身の修《をさ》まらぬおはまを娘はよく知つてゐたのだ、新吉がゐるうちはとにかく、不在であるならば、とおしげは我になく気になつた。
最初は母親と彼がむすびつけばと望んでゐたのに、知らぬ間に、変つて来てゐたのは、彼女も男を知つたからであらうが、彼女は深くその矛盾について考へてはゐなかつた。――
「母あちやんか、母あちやんは稼ぎに行つたよ」
「さうお」と、おしげはむつとして見せたくなつて、急にそつけなくすると他のお客のテーブルへ行つた。
それでもまた、お銚子を運ぶのにことよせて、秀一に話しかけてゐた。
「ねえ」と云つたが、何も云ふことはなかつた、――「雨はやんだか知ら」と、表へ飛び出して、あら、あがつちやつたと云つて、いけない、旦那との口約束があると思ひ出すのであつた。
「――いやに、しけ込んだね」
「憂欝なのさ」
「ふん、憂欝か、――君でもね」
「あんたなんか私のことを知らないよ」
暫くすると、秀一は酔つて、癖で次第に青くなつてゐた、おしげは、その酔ひが今夜は彼女にも移つてきたやうに思はれた。
「もつと、お飲みよ」
「無理しないがいいわ、ぢやないのか、――飲むよ」
お酌して、ねえ、とまた云つた。
「ねえ、――私、母あちやんて人はあばずれだと思ふわ」
何を云ひ出すのかと、秀一は、あばずれか、とをかしがつた。
「――笑ひごとぢやなくつてよ、――秀ちやんなんか、母あちやんに凝《こ》つちや駄目よ」
彼は、凝つちや駄目かね、と繰りかへした。
「本当よ」と、じれつたさうに、おしげは力を入れた、「だから――」
「だから、何だ」
「だから、さ、だからと云つたら――」
おしげは口惜しさうに泣きはじめた。
「いけないね、秀ちやんは」と、おつねが二人の横に立つて、――「うちの子を苛《いぢ》めると承知しないから、さア、仲直りなさいよ」
おしげは板場へすつ込んで、泣けるだけ泣いてゐた、そつと、肩を叩くものがゐるので、濡れた頬もかまはずにあげると、旦那であつた、彼は、あとで可愛がつてやるから、子供みたいに泣くのはおよし、とえり首に手を廻した。
いや、と彼女はもぎ取るやうにした。袖で涙を拭いて、ぢつと立つてゐたが、役者のやうににこにこと表情を作つて見た、出来たと自信がつくと、それをマスクのやうにかけて出て、
「ごめんなさいね」と、丁寧に秀一にあやまつた。
「ごめんね、――返事してよ」
「うん」
――おしげは、さうだ、秀ちやんとお酉様へお詣りしようと思ひついた、豊太郎にも、おきよにも面当《つらあ》てになると考へた。
「かんばんまで遊んでるでしよ」
「うん――いいよ」
「それからね、仁王門の側で待つててくれない」
「――待つててもいいけど、なぜ」
「お酉さま」
「ああ、――今年は三の酉もあるんだね、不景気、火事多しか」
「いやなの」
「誰もいやと云ひやしない」
すつかり晴れあがつてゐた。おしげは、豊太郎に早めに暇を貰つて、着がへるとさつさと新しいよそ行きの下駄を出した。
「花屋敷の表だよ、いいね」と、しつこく豊太郎は小声で云つた。
うなづいて、仁王門まで駈けて行くと、酔つ払つた秀一は、門柱と押しつくらをしてゐた。
「――滑稽ね、腕押ししてたの」
「ああ」
米久《よねきう》通りへかかる時、おしげは暗がりを見すかすやうに、小腰をかがめて、花屋敷の方へ眼をやつた。
「何してるんだ」
「知つた人がゐるやうな気がしたもんだから」
十二時をすぎたばかりの鷲神社は、初酉のお札を貰はうとする人たちで、身動きも出来ないほど、混雑してゐた、二人はその中に捲き込まれたが、しつかり掴まつといでと、秀一は手を握つてくれた、大きな人群れはまるで蛇のやうにうねつて、ともすればおしげは浚《さら》はれさうになつた。
「秀ちやん、下駄がどつかへいつちやつたよ」
「――見つかりやしないよ、――」
(昭和十年十二月)
底本:「現代文学大系44」筑摩書房
入力:山根鋭二
校正:伊藤時也
1999年10月19日公開
1999年10月23日修正
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