兄の豊太郎の前で云つて、兄さん気をつけなきや駄目よ、なぞとからかつた、彼らは恋仲で、同じ浅草公園のすしやの旦那であるが、他に有力な競争者があつたのにも拘らず、それを排して一しよになつたほどだから、おつねは飽くまでも彼のいい女房であつた、彼が相当の女蕩《をんなたら》しであり今どこで何をしてゐるか判らないどころではなく、時たまいやな噂も耳にするが、それでもおつねの豊太郎への心づくしは変らなかつた、そのむつましさが、おきよには、さうと意識したくはなかつたが、何とはなしに腹立たしかつたのは事実だ、お父つあんが死んでからはこの「たむら」が、眼に見えず蝕《むしば》まれるやうに他人のものになつて行く、そんな不安がぢりぢりとこみあげて来て、鳩尾《みづおち》のあたりがきうと疼《いた》んだ、――と云ふのは、相手さへあれば彼女が不平を云ふやうに、かつての「たむら」特有の、彼女流に云へば、「江戸つ子風」の空気は消えて了つてゐた、それは、店の経営が借銭ばかりふえて行きづまつた際、おつねの実家から莫大の金を出資してくれたため、そちらの意見を入れなければならず、これも彼女のいやがらせの表現だが、「まるで街道すぢの宿場茶屋みたい」にした、つまり店の小粋な設備も座敷を取り払ひ、一切腰かけにしたし、値段書きもはつきりと出し、雑駁《ざつぱく》な趣味のないものになつて了つたからである。お父つあんのやりやうはあくまでも旧式で、生きのいい本場ものを、それだけ高く食はせ、酒も樽やレッテルを信用せず、いちいち口喧《くちやかま》しく吟味し、自分でききざけしてから出すといつた風であつた、気にいらないqは突慳貪《つつけんどん》に追ひ立てを食はせ、買ひ出しに行つても思ふやうなねたが手に入らないと、本日売切の札を出したり、少くとも酒だけの客を取り、板場の自分はさつさと休んで金車亭の昼席へ寝ころびに行つて了ふのだ、死んで豊太郎の代になつてからも、さうした気風が残つてゐて、収支つぐなはないまでに到つたとも云へた、そんな莫迦《ばか》な商売下手はないと、おつねの父親は金を投げ出すとともに、今どきの客にそんなものを食はせたつて猫に小判みたいなもんだ、安くて見てくれさへよけれや、場ちがひもので結構、酒だつて宣伝のよくきいてゐるものなら中実《なかみ》のことなんかどうだつてかまやしない、と放言して、品川と同じ品を納れるやうになつた、彼の野心は、「たむら」を自分の店の浅草支店と改称させたかつたが、さすがそこまでは云ひ出せず、「たむら」の売れた名が客を持つてゐるなら仕方ないが、もしさうでなければ、何とか縁起のいい、ぱつとした屋号をつけるのが得だね、とだけ云つた、借りた金は、店の景気の立ち直るにつれ、それみな、俺の云ふ通りまちがひねえだらう、と恩にきせられながら、少しづつ返却してゐた、それがまたおきよの癪に触つた、くれてやつたやうな大きな顔しやがつて、今にきつと利息を取り立てに来るんだらうよとにくまれ口をきいた、まアさう云ふなよ、お前の嫁入り仕度は品川でしてくれるつてんだからと兄の豊太郎がとりなし顔で云つた、いやですよ、誰があんな田舎ばくちみたいなやつに、と口応《くちごた》へするおきよは、家の中で、おつねにぶつかつても、ぷいと横向いて、言葉一つかはさなかつた、兄嫁にしても小姑《こじうと》根性つて何ていやだらうと、眉をしかめ、お互に欠くべからざる要事があれば、豊太郎を通じて弁じるやうな仲になつてゐた。――
「何も私に隠すことなんかないぢやないか、え、しげちやん」
「――隠しやしないわ」と、彼女はジャムのついた唇を拭うた。
「なら、白状しておしまひ、兄さんはよほどあんたが好きらしいのね」
「――どうして、そんなこと云ふの」
鼻を上向きに、おきよは笑つて、
「およしよ、白つぱくれるのは、――まだ、何か食べるでせう、私はケエキを貰ふわ、あんたは」
トンカツを三つね、とガラス戸をやかましく云はせて、出前の註文であつた。
「私、もう結構」
「遠慮しなくてもいいわ、――ドオナツをおあがり」
「――そいぢや、牛乳をいただくわ、だけど、悪いわねえ」
さう云つて、おしげはくすと笑つた、彼女の客で、牛乳屋の若主人がゐて、独りでは恥しいと、いつも大ぜいの友人を連れて来ては、みんなにひやかされながら、結局はたかられて高いものについてゐるのを思ひ出したのだ。
「何さ、いけすかない、思ひ出し笑ひなんかして」
「いいえ、――おつぱい屋のこと」
「ああ」と、ちよつと冷い顔をして聞き流し、すぐにもとに戻つて、
「こなひだ、私、見つけちやつたんだよ」
擽《くすぐ》るやうな眼つきに、おしげは耐へられなかつた。
「――ね、裏口でさ、兄さんもなかなか大胆ね、昼間つから、あんたを抱いたりしてさ」
あたりを憚《はばか》つて小声ではあつたが、十七の小娘はゐたたまらぬ感じで、うつむいてゐた、――見られたのかと思ふと、すべての非が自分にあるかのやうに、彼女らしくなく、おどおどした。
「――怒つてるんぢやないのよ、ほめたげる、と云つてはをかしいけど、まア、私の云ふ気持も解るだらう、義姉《ねえ》さんは少し増長してるから、うんと痛めつけてやりたいのよ、――ねえ」と、煽動しにかかつた。
「お砂糖入れるの、――早くお飲みよ、場合によつちや、兄さんを取りかへしたつていいんだから、しげちやん、その覚悟があつて」
○
半月と少し前、おしげはあやまちを犯して了つたのだ、――生々しい記憶でありながら、まるで他人事のやうに茫然とした感じであつた、事実であることだけがはつきりしてゐて、その時の自分の性根や行動がいくら考へ直しても掴めなかつた、とんでもないことをしたとの後悔も自分の身体でなくなつたやうな生理的な不快さが残つてゐる間だけで、それが日を経て失くなると、何とも思はなくなつてゐた、その後悔も翌日になつてやつと胸に湧いて来たので、豊太郎の懐に飛び込んで行つたのは、誰かに復讐《ふくしう》するやうな、酸つぱくて哀しい感情に押されてであつた。
誰かに――と云ふことだけはおしげによく解つてゐた、母親と、義理の父と云ふのさへいやな、母親の近頃の連れあひ新吉とに対する意地からにちがひなかつた。
朝から秋雨が降つてゐた、奥で働いてゐる女中のおふぢに云はれて、裏口へ出て見ると、母親のおはまが傘のしづくを切りながら、立つてゐるのだ、またかとその要件は察したが、
「なアに」と、わざと不機嫌に云つた。
「けふ、お休みを貰へないかい」
「駄目、十五日ぢやないの、――それにゆうべからお神さんが品川へ帰つてるんだもの」
「困つたねえ、どうしたもんだらう」
大袈裟《おおげさ》に沈み込んで見せるのを、
「先月、病気して休んだんだから、当分ぬけられないわ、――用事はそれつきり?」
いかにも忙し気に、店を拭いてゐた雑巾を弄《もてあそ》んだ。
「――そこを何とか若旦那にお頼み出来ないだらうか」
「うるさいのねえ」
「――私はかまはないんだけど、新吉さんに恥をかかせるわけにはいかないからね」
おしげはむつとした、――自分の亭主を新吉さんなんてさん[#「さん」に傍点]づけにしてゐる、さう思ふと、どうせ、さうよ、母ちやんは私なんかより亭主の方が大事なんだからと、駄々児のやうに呶鳴《どな》りたくなつた。
「さう、新吉さんのためなら、私はどうなつてもいいのね」
「そんな、――お前」
「知らないわよ、――私のお給金の前借りばかりしやがつて」
そこまで云ふと、おしげは感情がこみあげて、咽喉がつまつたが、辛うじて泣かなかつた。
「――義理でも、お父つあんぢやないか、そんなひどい口をきくもんぢやないよ」
おはまはまだ三十七であつた、――おしげの実父と死別れてから、色んな男とついたり離れたりして来た、篠原新吉と云ふ公園で何をしてゐるか誰も知らない男と一しよになつたのは、去年の夏すぎで、彼女よりも年下であつた、別に形相《ぎやうさう》は恐しくはないが、油断のならない眼を冷く据ゑて、グリグリに青く頭を刈りつめ、ずんぐりと脊は低くかつた、全体にうす気味が悪いと云ふのが当つてゐた。
「何がお父つあんなのさ、義理なんかありやしない、あんな働きのないやつ」
おはまも、土手の蹴とばし屋の女中をしてゐた、母親と娘と二人で男を養つてゐるわけであつた。
それから、彼女はおしげにくどくどと訴へはじめた、――福ずしの旦那に、新吉さんがかたく約束したのだ、旦那はおしげに気があつて、ならば「たむら」をよさせて、自分の店に引取りたがつてゐた、と云ふのは、おはまの表面的な穏かな云ひ方にすぎず、子供の頃から仲たがひしてゐる豊太郎と、おつねを争つて負けた後、未だ独身の彼は、露骨におしげを妾にと望んでゐたのだ。出入りしてゐる新吉がそれを安受け合ひして来たのであらうとは、おしげにも想像できた、――そして今日は東京劇場へ連れて行くと云ふので、彼はきつと御伴《おとも》させますと引き受け、前売切符を二枚用意してあると云ふ。
「後生だから、何とかしとくれよ――さうでないと、新吉さんの顔はまるつぶれぢやないか」
おはまは娘を掻き口説いた。
「勝手ぢやないの、そんなの私の知つたことぢやないわ」
取りつく島もなかつた、忙しいんだから、帰つてよ、とおしげはづけづけと云つた。
「考へてみなさいよ、――福ずしさんと遊びに行くからと云つて、うちの旦那に暇が貰へると思つて?」
雨は一層きつくなつた、その中を母親は帰つて行つたが彼女が困れば困るほどいい気味だと、おしげは痛快だつた、そのくせ、すぐあとから、また新吉に罵《ののし》られてゐるのではないかと心配になつて来た、いつも二言目には、うちの母《か》あちやんが、と云ふのが口癖で、心の底からおはまを愛してゐる彼女は、さうなると、いよいよ新吉に憎悪の念を集めた、どうして母あちやんみたいないい女があんな下らない男に惚れてるんだらう、別れちまへばいいのにと、彼女は母親を独り占めにしたくなつた、せめて、もう少しお父つあんと呼ぶだけの価値のある人間だつたら、どれだけ肩身が広いだらう、定休日にもすすんで、象潟町《きさかたまち》の足袋屋の二階――おはまが間借りをしてゐるところへ戻つて、延び延びと骨休みもし、あまつたれも出来ようと情なかつた、どうかして、新吉と別れさせる方法がないものかと考へてゐた。
土曜日の十五日で、店は転手古舞《てんてこまひ》の忙しさであつた、おまけにおつねが留守のため、手が足りなく、ぼうつとして九時すぎ料理場で立つたままおそい夕飯を食べてゐると、帳場にゐた豊太郎が眼顔で、早く二階へ昇つて了へと教へてゐるのだ、え、と聞きかへして、はつとした、店の方から、新吉の乱暴な言葉が伝つて来た。
「いけない、隠れて」と、旦那が云ふので、食ひさしの茶碗を棚へ置き、足音を忍ばせて、階段を昇つた、上は彼女たちの寝室になつてゐた。
響いて来る新吉の怒り声に、ああ、いやだ、いやだ、とおしげは小娘らしい感傷で、私ほど不幸せな女はないと悩むのであつた。頭が痛いほど口惜しくつて、いつそ、下りて行き、お前は一体何だ、何をうるさく因縁をつけに来やがつたんだと呶鳴りかへしてやらうかと立つたり坐つたりしてゐた、しかし、それもここの家の迷惑を考へては、よほどのことにと畳を蹴立てて走り出しさうになるのをひかへねばならなかつた。
ざアざアと屋根を叩く雨の音が彼女を落ちつかせた、窓を開くと、さすが冷気が流れてゐて、微かに煙るアーク燈の光りのあちらに五重の塔がくすんだ影を陰欝に浮き立たせてゐた。
朝からの気疲れがおしげの身体を包んだ、新吉なんか怖かないやと思つてゐるうちに、そこに凭《もた》れてほんの暫くまどろんだ。
いい加減の頃合を見計つて、おしげは階下の様子をうかがつた、新吉はもうゐないらしいので、そつと下りた、旦那をはじめ、雇人たちに、すみませんを繰りかへして謝るのが辛かつた、おきよやおとしが、しげちやんの母あちやんも大へんな御亭主を持つてるのね、と皮肉を浴びせた。
女たちは店をしまつて、お湯へ行つた、おしげだけ
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