晴れあがつてゐた。おしげは、豊太郎に早めに暇を貰つて、着がへるとさつさと新しいよそ行きの下駄を出した。
「花屋敷の表だよ、いいね」と、しつこく豊太郎は小声で云つた。
 うなづいて、仁王門まで駈けて行くと、酔つ払つた秀一は、門柱と押しつくらをしてゐた。
「――滑稽ね、腕押ししてたの」
「ああ」
 米久《よねきう》通りへかかる時、おしげは暗がりを見すかすやうに、小腰をかがめて、花屋敷の方へ眼をやつた。
「何してるんだ」
「知つた人がゐるやうな気がしたもんだから」
 十二時をすぎたばかりの鷲神社は、初酉のお札を貰はうとする人たちで、身動きも出来ないほど、混雑してゐた、二人はその中に捲き込まれたが、しつかり掴まつといでと、秀一は手を握つてくれた、大きな人群れはまるで蛇のやうにうねつて、ともすればおしげは浚《さら》はれさうになつた。
「秀ちやん、下駄がどつかへいつちやつたよ」
「――見つかりやしないよ、――」
(昭和十年十二月)



底本:「現代文学大系44」筑摩書房
入力:山根鋭二
校正:伊藤時也
1999年10月19日公開
1999年10月23日修正
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