二言目には、うちの母《か》あちやんが、と云ふのが口癖で、心の底からおはまを愛してゐる彼女は、さうなると、いよいよ新吉に憎悪の念を集めた、どうして母あちやんみたいないい女があんな下らない男に惚れてるんだらう、別れちまへばいいのにと、彼女は母親を独り占めにしたくなつた、せめて、もう少しお父つあんと呼ぶだけの価値のある人間だつたら、どれだけ肩身が広いだらう、定休日にもすすんで、象潟町《きさかたまち》の足袋屋の二階――おはまが間借りをしてゐるところへ戻つて、延び延びと骨休みもし、あまつたれも出来ようと情なかつた、どうかして、新吉と別れさせる方法がないものかと考へてゐた。
 土曜日の十五日で、店は転手古舞《てんてこまひ》の忙しさであつた、おまけにおつねが留守のため、手が足りなく、ぼうつとして九時すぎ料理場で立つたままおそい夕飯を食べてゐると、帳場にゐた豊太郎が眼顔で、早く二階へ昇つて了へと教へてゐるのだ、え、と聞きかへして、はつとした、店の方から、新吉の乱暴な言葉が伝つて来た。
「いけない、隠れて」と、旦那が云ふので、食ひさしの茶碗を棚へ置き、足音を忍ばせて、階段を昇つた、上は彼女たちの寝室にな
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