出ちまはうよ、と促した、何が何だか判らないままに、おしげは押されるやうにして湯屋の表へ出た、もう冬近く、すぐに初酉《はつとり》なのに今年は例年よりあたたかくて、吹く風も湯あがりの上気した頬に快かつた、馬道《うまみち》の大通りにまだ起きてゐる支那ソバや十銭のライスカレーを食はせる店があつた、おごるわよとおきよはガラス戸を開けた、公園の稼ぎから帰る小娘や、自動車の運転手たちが夜食をしてゐるのを横眼に、汚れたテーブルにつくと、おきよはメニューを眺めながら、あんた何がいい、と聞いた、さうねえ、とおしげは壁の品書《しながき》を見上げて、私、トーストをいただくわ、ヂャミの、とそこはやはり御馳走になるので丁寧に答へた。
 おきよは肘《ひじ》をついて、ぢつと彼女に眼を注いだ、いやよ、そんな、――とおしげは指さきで眼頭を触つた、同じ店で客相手に働いてゐても主人の妹であるのを笠にきてゐる彼女は、いくらおしげが虫が好かないひとだと思つてゐても、かうやつてゐると年上ではあるし、評判の美しさに圧《お》されるのであつた。
「何ですの、――御用つて」
 気がかりだから、早く云つてと促した。
「――あんた、この頃、い
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