「私が都合つけたげるから、外で逢つてもいいのよ」と、まで云つた。
 おしげは、最後まで遂に、そんなことと笑つて、事実を告げなかつた。
「――まア、これはここだけの話、とにかく、私もその気だから、あんたもねえ」
 もう一度念を押して、おいくらと、おきよは金を払ふのであつた。
 おしげは、おきよに焚きつけられて、うかとすれば、そんな気にならないでもなかつたが、この姉娘に対するより深い反感がやつと堰《せき》になつてゐた。
 四日はひるすぎから、またしても小雨になつた、もつとどしや降りに降つて了へばいいと、何やら決心のつかぬのが、それで決定されると頼みにした、雨が云ひわけになる、寂びしい花屋敷前が眼にうつるのだ。
 宵の稍々《やや》手すきの頃、秀《しう》ちやんとみんなで親しく呼んでゐる青年が来た、おしげは、ああ、この人がゐたのを忘れてゐたと、すがりつきたい思ひがした。
 彼は母親たちが間借りしてゐる足袋屋の息子であつた、私立大学を出て、別にすることもなく家業の手伝ひはほんの申しわけで、遊んでゐた、底抜けの酒飲みで、はじめると夜が明けるまで盃を放さなかつた。
「どうしたの」と、おしげは、むすぼれて縺《もつ》れてゐたものが解けかかつたやうにほつとした表情で、彼の側に寄つた。
「何が」
「何がつて――」と、彼女は困つて、尻下りのあまえた声を出した、――どうしたのとは、自分のことで自分に云つたのだと気づいたからであつた。
「――ほら、母あちやんがさ」
 むつつりした秀一は、じろりとおしげを見た、――彼は先日、本当か嘘か酔つた拍子に、君の母あちやんに惚れたよ、と放言したことがあつた、何云つてんのよ、あんな年よりにと茶化しかかつたが、その時思ひかへして、それ冗談なんでしよ、と詰め寄せた、すると、真顔になつて、冗談ぢやないよ、と云ひ切り、おしげが、無理しないがいいわ、と云つても、次から次へと空の銚子を振つて催促したものだ。
 後になつて、秀ちやんが新吉から母あちやんを奪つてくれれば、助かるだらうと夢のやうな願ひごとをしはじめてゐた、彼が「たむら」へ来るたびに、けふは母あちやんとどんな話をしたの、一しよに活動へ連れてつたげてよう、なぞと云つて、どれだけおはまと交渉を持つてゐるかを探らうとした。
「母あちやんだつて、秀ちやん好きよ、きつと、――私にはよく判るの」
「判るもんか」
 月始めか
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