なくて、あき足らなかつた、――普通ならば、いかに手練手管《てれんてくだ》を弄されても、身を投げかけることはしなかつたかも知れない。
 さうした事件があつてからは、彼女は豊太郎にふと愛情を抱きはじめてゐる自分を発見してびつくりした、おつねが帰つてゐるので、二人だけで逢ふ機会はなかつた、何かの調子で眼があつたりすると、彼女は動揺して、彼の方に惹きずられる力を感じた、彼を見る眼はねつつこく光つてゐるやうな気がした、おつねがいい世話女房らしく立ち廻つてゐるのに軽い嫉妬も湧いて、しかし、そんな自分が忌々《いまいま》しかつた、――もとより豊太郎は色好みとの噂通り、その場の戯れにすぎなかつたであらうと最初からあきらめてゐるので、さうした彼に対する気持も根強いものではなく、その日その日にとりまぎれて了つた。
 十一月に入つた日、裏口へ塵芥《ごみ》を捨てに行くと、離れから起き出たばかりの豊太郎が顔を洗つてゐた。
「おい、ちよつと袖を持つてくれ」
 お神さんは何をしてゐるのかと、おしげは見廻してから、云はれる通りにした、すむと、これを蔵《しま》つてと歯磨類を手渡し、薄暗い台所の鏡に向つて髪に油を塗りはじめた、そのうしろを、狭いので身体を横にして抜けようとした時、豊太郎はとつさに振向いて、おしげを抱いた、本能的にすくんだ彼女をしめつけて、四日の晩、初酉《はつとり》に連れてつてやるよ、店をしまつたら、花屋敷の側で待つてな、と囁《ささや》くのであつた。
 彼女は店に出て、テーブルにからぶきんをかけてゐたが、豊太郎の腕がいつまでも胸を圧さへてゐるやうで、その温《ぬくも》りさへ着物についてゐるのではないかと、自分の手をあてて見たりした、――やはり一途《いちづ》に悦ばしかつたのだ、しかし旦那がああ云つたけど、一しよに行つていいものかどうか、話をして見たくもあり、もう綺麗|薩張《さつぱ》り忘れて了ひたくもあつた。
 彼女の横で、ぶくぶくに肥えたおふぢが、
「しげちやんたちはいいわ、――お酒のみの相手をしてられて陽気で、ああ、私もお店に出たい」と、独り言を云つてゐた、彼女は容貌が醜いので、板場の手伝ひをさせられてゐて、それが不平で仕方がなかつたのだ。
「え」と、おしげは考へを破られて聞きとがめた。

     ○

 おきよが目撃したと云ふのはこの朝のことなのだらう。
 彼女はおしげを煽《おだ》てて、
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