とはなかつたし、またステツキも小柄の兵野には凡そ不適当の太い籐のもので、握りにはきらびやかな獅子頭が附いてゐるといふ風な老紳土用のものだつたから、ついぞ兵野は持出したこともなく箪笥と壁の隙間に倒し放しになつてゐたものである。
「でも、一応、交番へ届けておきませうかね。」
「――止めておかう。」
 と兵野は云つた。「僕は、もう何うせ和服は着ないつもりだから……要らないよ。」
 兵野は、さういふことには(もつとも、はぢめてのためしではあるが――)ほんとうに恬淡であつた。惜しいとか、残念だつたとか、そんな心持はみぢんも起らなかつた。
 自分は何うであらうとも、盗難に出遇つた場合は届け出をしなければ法に合はない――とか、大きなことばかりを云つてゐたつて何うせ着物なんて買へやしないのだから届けておいて、万一戻りでもすれば幸せぢやないか――などゝ、兵野の細君と、大学生の松田達が切《しき》りと、不満の煙りをあげてゐたが、
「ぢや、何うでも君達の好きなようにしといて呉れ――」
 兵野は、左《さ》う云ひ棄てゝ慌てゝ二階へ駆け戻ると、こんこんと眠つてしまつた。
 その後、その話は兵野のうちでは誰も口にしな
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