かつた。無論、兵野も忘れてしまつた。
そして、一年ばかりの時が経つた。
兵野の酒は、だんだんたくましくなつて帰りの遅い晩が度重なつてゐた。
或る晩彼が――いつものやうに銀座裏の酒場で十二時となり、郊外へ戻つて来たが、何うも飲み足りないので、途中の、場末の露路らしいごみ/\とした横町で車を降りてから、あちこちを物色すると、未だ、中から呑介連の声が切りに響いてゐる居酒屋を見出したので、雀躍りをして飛び込んだ。
中は、仲々の盛況で、二坪ばかりの広さのところに細長いテーブルが二列に並び、学生風の男が二人と、飯を喰つてゐるカフエーの女給風の二人伴れと、奥の隅で数本の徳利を眼の前に並べた中年の会社員風の男と、その他、未だ二三人の商人風の人達が、夫々さかんに盃をあげて、談論の花を咲かせてゐる最中であつた。
「お君ちやん、ちつたあ俺のところに来てお酌をして呉れよ。淋しいからなあ!」
さう云つたのは、最も多数の徳利を並べてゐる会社員であつた。彼は、それほど多量の酒を傾けてゐるにも関はらず、別段、饒舌にもならず、ほんとうに淋しさうに、ぼんやりと天井を眺めたり、腕組をして凝つと想ひに耽つてゐる様子
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