露路の友
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)兵野《へいの》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ごみ/\とした
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一
おそく帰る時には兵野《へいの》は玄関からでなしに、庭をまはつて椽側から入る習慣だつたが、その晩は余程烈しく泥酔してゐたと見へて、雨戸を閉めるのを忘れたと見へる。
朝、階下の者が慌しく兵野の寝部屋をたゝいて、
「盗棒が入りました。」
と呼び起された。
主に兵野の衣類ばかりが紛失してゐた。彼は酒呑みで、着物のことには殆んど頓着なかつたから、それらは主に彼の亡くなつた父親からのものばかりであつた。着物の他には、彼の中古のソフト帽と金時計とステツキが見あたらなかつた。金時計とステツキは、やはり父親からのもので、時計は太い金の鎖が附いてゐる古型のもので、兵野には似合しくなかつたから一度も使用したことはなかつたし、またステツキも小柄の兵野には凡そ不適当の太い籐のもので、握りにはきらびやかな獅子頭が附いてゐるといふ風な老紳土用のものだつたから、ついぞ兵野は持出したこともなく箪笥と壁の隙間に倒し放しになつてゐたものである。
「でも、一応、交番へ届けておきませうかね。」
「――止めておかう。」
と兵野は云つた。「僕は、もう何うせ和服は着ないつもりだから……要らないよ。」
兵野は、さういふことには(もつとも、はぢめてのためしではあるが――)ほんとうに恬淡であつた。惜しいとか、残念だつたとか、そんな心持はみぢんも起らなかつた。
自分は何うであらうとも、盗難に出遇つた場合は届け出をしなければ法に合はない――とか、大きなことばかりを云つてゐたつて何うせ着物なんて買へやしないのだから届けておいて、万一戻りでもすれば幸せぢやないか――などゝ、兵野の細君と、大学生の松田達が切《しき》りと、不満の煙りをあげてゐたが、
「ぢや、何うでも君達の好きなようにしといて呉れ――」
兵野は、左《さ》う云ひ棄てゝ慌てゝ二階へ駆け戻ると、こんこんと眠つてしまつた。
その後、その話は兵野のうちでは誰も口にしな
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