かつた。無論、兵野も忘れてしまつた。
 そして、一年ばかりの時が経つた。
 兵野の酒は、だんだんたくましくなつて帰りの遅い晩が度重なつてゐた。
 或る晩彼が――いつものやうに銀座裏の酒場で十二時となり、郊外へ戻つて来たが、何うも飲み足りないので、途中の、場末の露路らしいごみ/\とした横町で車を降りてから、あちこちを物色すると、未だ、中から呑介連の声が切りに響いてゐる居酒屋を見出したので、雀躍りをして飛び込んだ。
 中は、仲々の盛況で、二坪ばかりの広さのところに細長いテーブルが二列に並び、学生風の男が二人と、飯を喰つてゐるカフエーの女給風の二人伴れと、奥の隅で数本の徳利を眼の前に並べた中年の会社員風の男と、その他、未だ二三人の商人風の人達が、夫々さかんに盃をあげて、談論の花を咲かせてゐる最中であつた。
「お君ちやん、ちつたあ俺のところに来てお酌をして呉れよ。淋しいからなあ!」
 さう云つたのは、最も多数の徳利を並べてゐる会社員であつた。彼は、それほど多量の酒を傾けてゐるにも関はらず、別段、饒舌にもならず、ほんとうに淋しさうに、ぼんやりと天井を眺めたり、腕組をして凝つと想ひに耽つてゐる様子であつた。
 お君ちやんと呼ばれた娘の方を兵野が眺めると、丈のすらりとした細おもての、髪を桃割れに結つた、一見、場末の雛妓《おしやく》風に装つた小娘が、おでんの鍋の傍らで燗番役をつとめてゐた。
「お酌に行かないと、泣く? 堀田さん――」
「そんなことを云つて呉れるな、お君ちやん――俺は、ほんとうに淋しいんだからな。」
「そろそろ、はぢまるの――堀田さん見たいな我儘な人つたらありはしないわ。人はね、誰だつて皆な淋しいのよ、それを誰だつて我慢してゐるだけのことなのよ。」
「さうかな……」
 と、堀田と称ばれた男は娘に酌をされながら、意見でもされた子供のやうにがつくりとして、盃を宙に浮べたまゝ考へ込むのであつた。
「その理屈が、何うしても僕には解らないんだ……」
「理屈ぢやないわよ。貴方は法学士のくせに、そんなことも解らないの。」
「淋しい/\、無性に淋しい、理屈も何もなくしんしんと僕は淋しい。そして僕には、世間の人は皆な面白さうに見へて仕方がないんだ。」
 体格は仲々堂々たるもので、肩のいかり具合などは柔道の心得でもあるらしく、眺められたが、その堀田の音声は、あのやうな感傷的の言葉を吐くの
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