今度は帰つて行くのよ。時々妾達は斯うして向き合つて夜の更けるのも忘れるんだが、爺やはこれが何よりも楽しみなのよ。」
 私は、空しく壁を眺めて、涙に似たものを湛へてゐた。(あゝ、あの絵もそんな遠い国に行つてしまつたのか、俺は何処まで独りであの凧を追はなければならないのだらう、あゝ、あの主人の眼が懐しい。)
「それでも兄さんは、仕事を探すと云つて出歩いてゐるんだが、おそらくA町あたりの| obscene house《ナンバー・ナイン》 あたりにもぐつてゐるに違ひない、と妾は思ふんだが……」
「さうだ、あの辺の小料理屋は悉くナンバー・ナインの類ひらしい、A町だ、昔の吾家のあたりだ。だが、青野はあの辺には居ない。」
 私は、漠然と青野の行衛を考へたり、握つてゐるメガホンを覗いて、どうしたならば自分の意図を源爺に通じることが出来るだらうかなどといふことに空しく思案を傾けてゐた。
「ぢや、東京かも知れないね。」
「何のために行くのかと訊かれても返答の仕様もないので僕は、吾家の者にこゝに来ることは云はないでゐるんだが、吾家では僕が悪い遊びにでも行くのかと疑つてゐる。」
「あんたと同じやうなことを兄さんも何処かで演じてゐるのかも知れないね。」
「えツ、何が? どうして!」と私は、何だか訳がわからぬ気がして問ひ返したが、彼女は、私の言葉は耳にも入らぬやうに、変らぬおだやかな調子で呟いてゐた。
「あゝいふ種類の熱情家が、財産を失ふといふことは悲惨ね。」
「あゝ、俺はあいつに遇ひたい!」と私も私で独り言のやうな嘆息を洩した。
「兄さんは、顔は、妾の知らないお母さんにそつくりなさうだけれど、心はお父さんそつくりなのよ。」
「さうかしら……」と私は、わけもなく声を震はせて叫んだ。
「そして妾はね、兄さんとは反対で顔はお父さん似――」と云つた冬子の声が、私の耳に奇妙な新しさを持つて響いた。彼女の言葉は、私の心持を洞察しきつてゐるかのやうに響いて、私に、安んじて依頼せしめるやうな朗らかさを感じさせた。「お父さんの顔を思ひ出したかつたら、好く私の顔を見ると好いんだ……」
「…………」
 何かに打たれたやうにぴりツとした私の眼の先に、
「ほうら!」
 さう云ひながら、戯れるやうに眼を視張つて彼女が顔を突き出した。凝つと私はその眼を視詰めて、
「さうだ! 俺は今迄気がつかなかつた。」と云ひ放つた。……(だが、主人の眼とは違ふ。主人の眼は俺にこのやうな静けさは与へて呉れない?)
 冬子は、私に示したことは忘れたかのやうに、いつまでも、無心気に、私の眼近かで視張つてゐた。私は、その視線に、鋭く、小気味好く、快く、突き刺された。――耳を澄すと、蹄の音がした。爽やかな鬣が私の頬をさら/\と打ち撫でた。風笛のやうに鳴る口笛を感じた。私は、巧妙な騎手になつて、風を切つて駿馬を飛ばしてゐた。夕靄の中に光つた、彼女の眼があつた。――私は、「ボーフラ」の姿が、次第に近づいて来るのを、凝つと鬣の蔭から打ち仰いで、微笑を感じた。
「さう思はない?」
「…………」
 私は、はつきりと展開されてゐる私のあの幻の中だけに生きた。私の心は、五体を鞭にして、唇を鳴し、馬を駆つて、まつしぐらに凧を追つてゐた。――私は、一寸眼近かに冬子の瞳に自分の視線を吸ひとられた刹那に、極度の痴酔に感極まり、其処に源爺のゐることも忘れて、奇声を放つと同時に彼女の頬を両手の平でぴつたりとはさんだ。……。

          *

 同じやうな夜ばかりが私に繰り返されてゐたのだ。だから幾部分かのこの章の動詞は寧ろ Present Naration に綴るべきが、現在の私の心域に照しても順当なのだが、今は青野兄弟も共々に面会の許されない或る脳病院に入院してゐるのでもある故、一先づ過去のかたちに統一して叙したのである。[#地から1字上げ](昭和二年一月)



底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論 第四十二巻第三号」中央公論社
   1927(昭和2)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
2006年5月7日作成
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