つた今帰つて来たところなのよ。アラ、歩けないの!」
「青野が留守のことは解つてゐる筈なのに……あゝ、俺はまた来てしまつた。」
私は、救けられて長椅子に腰を降すと共に直ぐに跳ね上るのであつた。「青野に会ひに来たんだ。……ぢや、さよなら。」
「毎日繰り反してゐる。失敬ね、突然来て、突然さよなら!」
「あの頃は、まだ冬ちやんは赤ン坊の時分だつた、だから冬ちやんは知るまい……」
「昔の話は御免よ。今日もあんたのお母さんから昔の吾家の話を聞されて、退屈してしまつた。何んなことを聞いても妾は何とも思はない、だつて今の生活が気に入つてゐるんだもの。あんたも東京なんて止めにして此処の隣りに斯んな家でも建てないこと、千円位ゐで出来るつてさ、土地はタヾでやるわ。」
「兄さんは何時帰るだらう?」
「解らないんだと云ふのに!……」
「うむ、これで好い。さうだ、冬ちやんも飲むんだつたね。」
冬子が棚から取り降した洋酒を私は、勢ひ好くあをつた。「おや、此処にお父さんの油絵が懸つてゐた筈だが、あれはどうしたの?」
さう云つて私は、壁を指差した。確かに其処には兄妹の両親の肖像画が一対並んでゐたのだ。私は、兄妹の父親の肖像が見たかつた。――今見ると其処には冬子の写真が、大きな金縁の額に入つて懸けてあつた。
「それは去年のことぢやないの?」
「さうかなあ! あのお父さんの肖像も僕にははつきり残つてゐる。」
「肖像も?」
「いや、肖像画があり/\と残つてゐる。」
「何をそんな処ばかり眺めてゐるのさ。妾は古い吾家のもので何にも欲しいと思ふものはないけれど、あの馬だけには未練がある。」冬子はさう云つて馬上姿の自分の写真を見上げた。私は、其処にあつた筈の父親の肖像画に未練を繋いでゐたのだ。
「さうだらう、冬ちやんはあの馬と一処に育つたやうなものだからね。」
「まさか――」と冬子は、つまらなさうな苦笑を浮べた。彼女の眼は、此方の顔を眺めてはゐるのだが、例へれば、その網膜には実在の物は映つてゐない、何か形のない物を視詰めてゐる、明るく悩みなく一途に何かを見透してゐる――そんな風に円らに光つてゐるのだ。彼女の眼蓋は、殆んど眼ばたきを見せない。彼女の唇から洩れる言葉は、彼女にとつては徒然に吹く口笛に過ぎない――そんな感じを私に与へるのであつた。私は、悪酒に酔ひ痴れて、一途に凧の影を追つてゐるのみなのだ。そして彼女の呟く言葉も私にとつては遠い囁きに過ぎなかつた。二人は勝手に辻妻の合はぬ言葉を交してゐるに過ぎない。それが何処かの点で稀に対照されたに過ぎない。……彼女は私の顔を眺めてゐる。私も亦彼女の顔を眺めてゐる。だが私の網膜にも彼女の顔は在りの儘には映つてゐない。卑俗な私の眼は、せめて兄弟の父親の眼に触れて心細い凧の憧れを活気づけずには居られなかつたのである。
「妾は馬に乗つて駈ける夢は、今でも見て、風になる程心が躍る……あれは妾にとつて一種の秘密な快楽だつたから……」
私が極力止めるのも諾かずに冬子は、馬小屋に忍び込んで「お父さんに見つかると叱られるんだが、妾は夕方如何してもこれに乗つて遊んで来ないと夜眠れないのよ。」
さう云つて私にも一処に乗れとすゝめた。もう私は、たしか中学の初年級に入つてゐた頃だつたらう、私は酷く小柄な少年だつたが、私が前に乗つて、手綱を持つた冬子が私の背後《うしろ》に股がると彼女は首をすぼめて漸く私の胴脇からでないと前方を見ることは出来なかつた。彼女は、臆病な私に様々な警告を与へながら次第に馬の速度をはやめた。私は酷くテレ臭い格構で石のやうにギゴチなく凝然としてゐるばかりであつたが(私は正当な乗手になつて前方を視詰めてゐるわけにも行かなかつた、羞み笑ひを浮べる程の余裕もない、と云つて余り悸々《びく/\》するのも自尊心に関した。私は主に蹄の音に耳を傾けてゐた。)背後の冬子が如何に爽快に己れの五体を自由な鞭に変へて、毛程の邪魔もなく私の身を軽々とその翼に抱き、如何に見事な騎手の役目を果してゐるかといふことが、安んじて窺はれた。安心がなかつたら、あのやうに一散に駈る馬の背に一時たりとも私が乗つてゐられる筈はない。
冬子は汽笛のやうに唇を鳴らした。
「こわくはないだらう!」
「あゝ。」と私は点頭いた。
「さうだ、もつと体を前にのめらせて! 帆になつては駄目よ。……馬場まで行くのよ。」
「大丈夫かい? 日が暮れやしないのか。」と私は、声色だけは威厳を含めて呟いた。
「普段はもつと遅く出掛けるのよ。夕御飯の仕度が出来た頃に、一寸と妾は紛らせて。」
冬子が知らない頃に凧上げの場所だつた盆地が、その頃は競馬場に変つてゐた。馬場に来ると大概私は、自分から降りて見物者になるのが例だつた。
冬子を乗せた彼女は、裸馬のやうに自らスタートを切つた。冬子は、小さな白い顔をぴつたりと馬の首側に吸ひつけて、振動に一微の抵抗も示さず、肢体をその背に沈めてゐるので、夕靄が低く垂れこめてゐる時刻の為もあつたらうが、眼前をよぎられても私は乗手の姿を認めることが出来なかつた。放たれた馬が気儘に狂奔してゐるとより他は見えなかつた。
たゞ私は、真向きに馬に面した刹那々々に、鬣の蔭に異状な鋭さを放つて靄を突き射してゐる二つの眼球を視た。馬を見失つて、光る視線に射られた。
「馬乗りなんて頼まないで、冬ちやんが出たつて平気だね。」と私は、何よりもあの眼から圧迫を感じて、言葉を代へて感嘆した。
「それア。」
彼女は当然のことのやうに聞き流した。――「だけどお父さん達は妾がこれの傍に寄つたこともないだらうと思つてゐるのよ。叱られたつて怖くもないんだが、妾何だかそれが面白くつてワザとかくれて、これと遊んでゐるのさ。競馬の前になると、いろんな奴が集つて大騒ぎで練習をするんだが、妾程うまくやれる奴は一人も居ないわ、それを妾は知らん振りをして遠くから眺めてゐるのが、何だか好きで――」
私は一寸と反感も覚えたが、そんな事を云つてゐる冬子の様子に得意気らしいところも見えず、嘲笑の色もなく、寧ろ寂し気な気合さへ感じられたり、その上私は彼女に安らかな依頼心が起きて、変な夢心地に陥ちてしまふのであつた。――戛々《かつ/\》と鳴る蹄の音を、私は和やかな自分の鼓動のやうに感じながら、もう殆んど暮れかゝつてゐる野路を駈けてゐた。行きがけと違つて自分も一個の騎手になつてゐるかのやうな面白さに打たれ、背後に冬子が居ることも忘れて、有頂天で手綱を振つた。
「お父さんは何時々分《いつじぶん》から競馬に凝り出したんだらう。死ぬまで妾達は気が附かなかつたが、馬の為だけでもあらまし吾家の財産は借金に代つてゐたらしいのよ」
「…………」
凧以来であることを私は伝へ聞いたことがある。今私の胸には、あの主人が凧を追ひかけて行つた時の二つの炎《も》えた眼だけが烙印になつて残つてゐるのだ。私は、主人の肖像画の後を追ひかけてゐた。
「馬鹿々々しい熱情家さ。何かしら変な目的を拵えて、それに夢中になつて、慌てゝ死んだやうなものね。……癪に触つたから妾、肖像画も懸け換へてしまつたのよ。」
「あの肖像画を見せてお呉れ!」
「厭アよ、そんな大きな声を出して!」
「何処に蔵《しま》つてあるの?」
「兄さんが売つてしまつたわよ、無理におしつけて、叔父さんに。」
「叔父さんに※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「学生時分に妾が行つてゐたことがあるでせう、英語の勉強とかに……横浜の――。此頃、外交官になつて、変な国に行つてゐる。」
「俺、俺……僕は、知らない、そんな叔父さんなんか! あゝ、それは、ほんとに……」
「兄弟の肖像だから買つたといふわけぢやないんだわ、屹度! あの見得坊が、あんな変梃な姿の絵なんぞを若し人にでも訊かれて、ハイこれは私の兄であります、なんて吹聴出来る筈はない、吾々の故郷では当時斯様な姿をしてゐたものです、それ位ひの愛嬌で、ほんの標本にされてゐるだけなんだ。」
「…………」反抗心をそゝられて私は、屹つと唇を噛んだ。
「ハヽヽヽヽ、さう思ふと、一寸と気の毒な気もする。あの保守的な親父が変な国の応接間かなんかの曝し物になつてゐるかと思ふと――」
「……君の、ものゝ云ひ振りの方が寧ろ怪しからんよ。」
「チエツ!」と冬子は、鋭く舌を鳴した。私は、ギヨツとして彼女の顔を見直したが、其処には、私の存在の気合もなかつた。彼女が何に向つて舌を鳴したのか私には、計り知れなかつた。彼女は、終始変りのない眼ばたきの少い眼を、ゆつたりと視張つてゐるばかりだつた。
「僕こそ、あの肖像画が欲しかつたんだがな――」
私達は、別々な想ひに煙つたまゝ対坐してゐるのだ。彼女が呟く言葉は自身に取つては末梢的なものに過ぎないやうだつた。――たゞ、顔を見合せてゐるばかりだつた。
「売る奴も馬鹿なんだけれど、もう半分自暴にもなつてゐるらしい、兄さんは――」
彼女は、近頃の青野の愚かし気な動静を語つたり、また彼等兄妹が旧知の人々から如何な風に取り扱はれてゐるかといふことも告げた。気狂ひ兄妹だと云つて、誰もが相手にしなくなつてゐる……。
「考へるまでもなく、それも無理はないんだけれどね……。あんた知つてゐるわね、妾は子供の時分からの癇性で髪の毛を長くしてはゐられない、子供の時の儘で、ずつと斯う断つてゐるのを? こんなことまで今更、気狂ひの附け足しにして何とか云ふのよ。」
「この間うちそんな風な頭がはやつてゐたらしいが――」
「どうだか知らない。」……正当な交際を続けてゐるのは私の母より他になくなつたが、此頃では如何かすると何処か母の態度にも此方を病人扱ひにしてゐるやうなところも窺はれる、だから此方からはなるべく訪れないやうにしてゐる、今では他人と言葉を交へるやうな日は滅多にない、源爺やだけが昔ながらにたつた一人残つてゐる、そして妾達の世話をしてゐて呉れる、それは――と彼女が、続けやうとした時に、私は突然膝を打つて歓喜の声を挙げた。
「源爺やが居る! そんなら僕は今直ぐに訊きたいことがあるんだ!」
冬子は、私の様子には気附かないやうに言葉を続けてゐた。「妾達は、爺やに給料を払ふどころかあべこべに、世話になつてゐる、この家だつて……」
「起したつて好いだらう、何処に寝てゐるの? 僕は会ひたい!」
この家だつて彼の出費で建築されたんだ、ひよつとすると彼は少しばかりの財産を妾達に譲らうとしてゐるらしいが……などといふことを冬子は続けてゐたが、今にも私が部屋から飛び出さうとした時に、彼女は静かに私をおしとゞめた。「会つたつて駄目よ。あれも頭が妙になつてゐて妾と兄さんの顔だけしか覚えてゐないのよ。そして、酷い聾者になつてゐるの。」
さう云つて彼女は、私も時々それに眼をつけて何に用ひるものなんだらうか? と思つたが、訊ねる隙もなかつた手製らしいメガホンを取りあげると、扉をあけて、「オーーツ」と鳴らした。
「爺やと話すんなら、あんたもこれで云はなければならないのよ。だけど、これを使つたつて言葉は通じないのよ。たゞ合図だけのことよ。私達の間には、いつの間にか十通りばかりの合図の種類が出来てしまつて、それで一通りの用事は足りてゐる。あれは、字は何も知らない。」
私は、頭をかゝえてドンと椅子に落ちた。
オーツといふのが呼声の代りだと見えて、間もなく源爺は直ぐ隣室から現れて冬子の傍に来ると、昔のまゝな円満な微笑を湛えて、主人の足もとに坐つてゐた。
「お前は達者で好かつたね。何よりも先に、僕はお前に訊ねたいことがあるんだよ。お前ならば屹度知つてゐるんだ。」
私は、懐しさの情に溢れて、冬子の云つたことなどは忘れて、思はずしつかりと彼の手を握ると、烈しく打ち振つた。
「駄目よ、何と云つたつて。」と冬子は、寂しく笑ひながら徒らにメガホンを私に渡した。源爺は、にこ/\と笑ひながら、自分で持つて来た盃をとり出して、有りがたさうにいち/\戴きながら傾けてゐた。向方で独りで今頃まで晩酌をしてゐたらしい私達のとは別な酒を其処に運んで楽しさうに飲んでゐた。
「もう一度若しそれを吹くと、
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