毒薬を嚥んだ者のやうに髪の毛を掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]つて、空壜に等しい頭を殴つた。その挙句の果、泥酔してゐるものゝそれだけ一途に凧を追つてまつしぐらに夜の街に飛び出すのが常だつた。
 故郷の町であるのに其処は全く私にとつては見知らぬ街だつた。といふのは、あの大地震の後に上京した私は、時々此処に帰るのであつたが、いつも何故か無性に人目をはゞかつて、逃げるやうに眼を覆つて母の家に行き着く以外には何処にも出なかつた。だから私には、一朝の間に消え失せて曾ての薄暗い古びた街の印象より他はなかつた。
 私には見当もつかない。道幅の広い瓦斯灯が昼のやうに煌いてゐる樹木の一本もない不思議な街を私は見た。私は此処こそ暗い横丁だらうと思つて逃げ込むと、其処にはペンキ塗りのバーやカフエーが軒をそろえて客を招んでゐる。たしかに知合の茶屋のあたりだと思つて、一散に駈け込むと活動写真館だつた。知つた人の影にも遇はないのは私にとつては幸ひだつたが、せめて知合ひの茶屋の行衛《ゆくゑ》を往来の人を捉へて訊ねて見ると空しく言下に首を振られる。カフエーなどは停車場の前より他には無かつた筈だ。私が母家を離れて住んだことのある竹藪を背つた家の趾らしいあたりには、支那そば屋と氷屋と居酒屋が並んでゐる。母家の趾には銘酒屋が立ち並んで景気の好い三味線の音が鳴つてゐる。私は隣りのバーによろけ込んだ。
「あんた東京の学生さん?」
「うむ……」
「おゝ、嬉しい、妾も東京よ。」
 また隣りの洋食屋に私は移つた。「いけ好かないアンちやんだよう、誰がおなじみなのよ。ふんとに人が悪い、しらばつくれて!」
 ……往来に転げ出ると、思ひも寄らぬタクシーが通つてゐる。「青野に会ひたい、あいつが凧のことを忘れてゐるにしても、あいつの顔を見るだけでも俺はいくらか救はれるだらう。」――屹度私は斯う呟くのである。夢中で私は、一里あまりあるB村に自動車を飛ばせるのが常だつた。私は、大声を挙げて腕を振り地団駄を踏んだ。私は、青野の父や村長の後に続いた決死の勢子達の一員に花々しく吾身を投じた陶酔をはつきりと味つた。
 青野の家は、以前の姿をあたりの景色と同様に全く滅ぼして、丘の一隅に粗末な洋館に変つてゐる。闇の中に一点の灯が浮んでゐる。畑を超えた一軒家である。
「もう来る時分だと思つてゐた。妾、今日あんたの家へ行つてたつた今帰つて来たところなのよ。アラ、歩けないの!」
「青野が留守のことは解つてゐる筈なのに……あゝ、俺はまた来てしまつた。」
 私は、救けられて長椅子に腰を降すと共に直ぐに跳ね上るのであつた。「青野に会ひに来たんだ。……ぢや、さよなら。」
「毎日繰り反してゐる。失敬ね、突然来て、突然さよなら!」
「あの頃は、まだ冬ちやんは赤ン坊の時分だつた、だから冬ちやんは知るまい……」
「昔の話は御免よ。今日もあんたのお母さんから昔の吾家の話を聞されて、退屈してしまつた。何んなことを聞いても妾は何とも思はない、だつて今の生活が気に入つてゐるんだもの。あんたも東京なんて止めにして此処の隣りに斯んな家でも建てないこと、千円位ゐで出来るつてさ、土地はタヾでやるわ。」
「兄さんは何時帰るだらう?」
「解らないんだと云ふのに!……」
「うむ、これで好い。さうだ、冬ちやんも飲むんだつたね。」
 冬子が棚から取り降した洋酒を私は、勢ひ好くあをつた。「おや、此処にお父さんの油絵が懸つてゐた筈だが、あれはどうしたの?」
 さう云つて私は、壁を指差した。確かに其処には兄妹の両親の肖像画が一対並んでゐたのだ。私は、兄妹の父親の肖像が見たかつた。――今見ると其処には冬子の写真が、大きな金縁の額に入つて懸けてあつた。
「それは去年のことぢやないの?」
「さうかなあ! あのお父さんの肖像も僕にははつきり残つてゐる。」
「肖像も?」
「いや、肖像画があり/\と残つてゐる。」
「何をそんな処ばかり眺めてゐるのさ。妾は古い吾家のもので何にも欲しいと思ふものはないけれど、あの馬だけには未練がある。」冬子はさう云つて馬上姿の自分の写真を見上げた。私は、其処にあつた筈の父親の肖像画に未練を繋いでゐたのだ。
「さうだらう、冬ちやんはあの馬と一処に育つたやうなものだからね。」
「まさか――」と冬子は、つまらなさうな苦笑を浮べた。彼女の眼は、此方の顔を眺めてはゐるのだが、例へれば、その網膜には実在の物は映つてゐない、何か形のない物を視詰めてゐる、明るく悩みなく一途に何かを見透してゐる――そんな風に円らに光つてゐるのだ。彼女の眼蓋は、殆んど眼ばたきを見せない。彼女の唇から洩れる言葉は、彼女にとつては徒然に吹く口笛に過ぎない――そんな感じを私に与へるのであつた。私は、悪酒に酔ひ痴れて、一途に凧の影を追つてゐるのみなのだ。そして彼
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