女の呟く言葉も私にとつては遠い囁きに過ぎなかつた。二人は勝手に辻妻の合はぬ言葉を交してゐるに過ぎない。それが何処かの点で稀に対照されたに過ぎない。……彼女は私の顔を眺めてゐる。私も亦彼女の顔を眺めてゐる。だが私の網膜にも彼女の顔は在りの儘には映つてゐない。卑俗な私の眼は、せめて兄弟の父親の眼に触れて心細い凧の憧れを活気づけずには居られなかつたのである。
「妾は馬に乗つて駈ける夢は、今でも見て、風になる程心が躍る……あれは妾にとつて一種の秘密な快楽だつたから……」
 私が極力止めるのも諾かずに冬子は、馬小屋に忍び込んで「お父さんに見つかると叱られるんだが、妾は夕方如何してもこれに乗つて遊んで来ないと夜眠れないのよ。」
 さう云つて私にも一処に乗れとすゝめた。もう私は、たしか中学の初年級に入つてゐた頃だつたらう、私は酷く小柄な少年だつたが、私が前に乗つて、手綱を持つた冬子が私の背後《うしろ》に股がると彼女は首をすぼめて漸く私の胴脇からでないと前方を見ることは出来なかつた。彼女は、臆病な私に様々な警告を与へながら次第に馬の速度をはやめた。私は酷くテレ臭い格構で石のやうにギゴチなく凝然としてゐるばかりであつたが(私は正当な乗手になつて前方を視詰めてゐるわけにも行かなかつた、羞み笑ひを浮べる程の余裕もない、と云つて余り悸々《びく/\》するのも自尊心に関した。私は主に蹄の音に耳を傾けてゐた。)背後の冬子が如何に爽快に己れの五体を自由な鞭に変へて、毛程の邪魔もなく私の身を軽々とその翼に抱き、如何に見事な騎手の役目を果してゐるかといふことが、安んじて窺はれた。安心がなかつたら、あのやうに一散に駈る馬の背に一時たりとも私が乗つてゐられる筈はない。
 冬子は汽笛のやうに唇を鳴らした。
「こわくはないだらう!」
「あゝ。」と私は点頭いた。
「さうだ、もつと体を前にのめらせて! 帆になつては駄目よ。……馬場まで行くのよ。」
「大丈夫かい? 日が暮れやしないのか。」と私は、声色だけは威厳を含めて呟いた。
「普段はもつと遅く出掛けるのよ。夕御飯の仕度が出来た頃に、一寸と妾は紛らせて。」
 冬子が知らない頃に凧上げの場所だつた盆地が、その頃は競馬場に変つてゐた。馬場に来ると大概私は、自分から降りて見物者になるのが例だつた。
 冬子を乗せた彼女は、裸馬のやうに自らスタートを切つた。冬子は、小さな白い顔をぴつたりと馬の首側に吸ひつけて、振動に一微の抵抗も示さず、肢体をその背に沈めてゐるので、夕靄が低く垂れこめてゐる時刻の為もあつたらうが、眼前をよぎられても私は乗手の姿を認めることが出来なかつた。放たれた馬が気儘に狂奔してゐるとより他は見えなかつた。
 たゞ私は、真向きに馬に面した刹那々々に、鬣の蔭に異状な鋭さを放つて靄を突き射してゐる二つの眼球を視た。馬を見失つて、光る視線に射られた。
「馬乗りなんて頼まないで、冬ちやんが出たつて平気だね。」と私は、何よりもあの眼から圧迫を感じて、言葉を代へて感嘆した。
「それア。」
 彼女は当然のことのやうに聞き流した。――「だけどお父さん達は妾がこれの傍に寄つたこともないだらうと思つてゐるのよ。叱られたつて怖くもないんだが、妾何だかそれが面白くつてワザとかくれて、これと遊んでゐるのさ。競馬の前になると、いろんな奴が集つて大騒ぎで練習をするんだが、妾程うまくやれる奴は一人も居ないわ、それを妾は知らん振りをして遠くから眺めてゐるのが、何だか好きで――」
 私は一寸と反感も覚えたが、そんな事を云つてゐる冬子の様子に得意気らしいところも見えず、嘲笑の色もなく、寧ろ寂し気な気合さへ感じられたり、その上私は彼女に安らかな依頼心が起きて、変な夢心地に陥ちてしまふのであつた。――戛々《かつ/\》と鳴る蹄の音を、私は和やかな自分の鼓動のやうに感じながら、もう殆んど暮れかゝつてゐる野路を駈けてゐた。行きがけと違つて自分も一個の騎手になつてゐるかのやうな面白さに打たれ、背後に冬子が居ることも忘れて、有頂天で手綱を振つた。
「お父さんは何時々分《いつじぶん》から競馬に凝り出したんだらう。死ぬまで妾達は気が附かなかつたが、馬の為だけでもあらまし吾家の財産は借金に代つてゐたらしいのよ」
「…………」
 凧以来であることを私は伝へ聞いたことがある。今私の胸には、あの主人が凧を追ひかけて行つた時の二つの炎《も》えた眼だけが烙印になつて残つてゐるのだ。私は、主人の肖像画の後を追ひかけてゐた。
「馬鹿々々しい熱情家さ。何かしら変な目的を拵えて、それに夢中になつて、慌てゝ死んだやうなものね。……癪に触つたから妾、肖像画も懸け換へてしまつたのよ。」
「あの肖像画を見せてお呉れ!」
「厭アよ、そんな大きな声を出して!」
「何処に蔵《しま》つてあるの?」
「兄さんが
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