にか私の心身は共に疲れたと見えて、実務に対する凡ての働きが臆劫になり、数理的の観念が消えて、反動の如く強く徒らに妄想病が募るばかりであつた。妄想の範囲は、あの凧のあれだけの姿に限られてゐた。
 頭や顔ばかりではない、尾の附け方だつて、胴片のつなぎ具合だつて、脚の釣合ひのとり方だつて、釣の掛け方は云ふまでもなく、塗料のあんばいだつて――一途に心が狂奔するばかりで、今はもう部分的に手を取つて見ようとすれば何も彼も滅茶滅茶で凡てが手の施しようもなかつた。そして、たゞボーフラのやうに小さい凧が空の一点から切《しき》りにまねいては嘲笑ひ、私の悲惨な憧憬を弥《いや》が上にもたかぶらせながら、絶え間なく白日の夢に髣髴としてゐるのであつた。

     三

「ゆうべもまたあなたは宿をあけたでせう、毎晩毎晩何処へ行くの?」
 妻は、迂論な眼差しで私を屹と睨めた。あたりが薄暗くなつたのを待ち構えて私は、四五日前から引き移つてゐる海辺の旅舎を毎晩空にするのであつた。今も私は、出かけようとして玄関に立ち現れたところを彼女につかまつたのである。
「昼間だつてあたしは、さつきも来て見たのよ。」
「昼間も!」
「毎日のぞきに来てゐるわよ。」
「…………」
 私は、わけもなく酷くたぢろいだ。別段妻に見つけられて後ろ目たい思ひをしなければならないといふやうな種類の行動を為してゐるわけではなかつたのに私は、愕然とした。
「変だ!」と妻は、私の態度から自分の相像が当つたと思ひ違へて、眼を据えた。「ゆうべは、あなたはとう/\帰つて来なかつたんぢやないの、ちやんと解つてゐる。」
「お前は――」と私は静かに諭さうとしたが、妻の想像に弁護すると思はれるのも嫌だつたし、また思ひ返して見れば前夜の自分の行動も酷く曖昧でとらへ処もなかつた。「そんな疑ひを持つものぢやない、自分の気持を汚すばかりでなく此方の気分を……」
「へんツ!」と妻は、鼻先きで卑しくセヽラわらつた。「何が気持さ!」
 私は、私自身を妻の立場から眺めて残酷[#「残酷」に傍点]に感じた。私は、相手からさう[#「さう」に傍点]見られることに怯えを感じた。だが、説明の仕様《しかた》がなかつた。此方が、たぢろげばたぢろぐ程妻の嫉妬を掻きたてるやうなものだつた。
「吾家ではお母さんやあたしの手前が具合が悪いもので、それで勉強だとか何とかと吹聴して斯んな処に移つたに相違ない。」
「それは、さうだ。」と私は、思はず実際の気持を表白した。私は、窓に腰を降して海の上を見晴した。寸暇もなかつた激務の間に、ふと休息を持つたやうな静けさを感じた。
「それは、さうだつて?」と彼女は、苛立つて唇を震はせた。「まア、何といふ図々《づう/\》しいことを平気で云ふ人だらう!」
「…………」
 こんな海の傍に居ながら、この静かな夕暮の海辺の景色を眺める閑もなかつたのか! 俺は! ……私は、帽子をかむつた儘何時になく落着いて、暮れて行く海原を眺めてゐた。
「机の上にはペン一本載つてゐない。部屋中には本一冊見当らない。約束のハガキは書いたの、東京のお友達に?」
「さうだ、忘れてゐた、エハガキとペンとインキを買つて来て呉れ、大急ぎで――あゝ、悪いことをしてしまつた、此方で会ふ約束がしてあつたのだ。遊びに来て呉れるんだ。俺が此方に居る間に――」
「だから吾家に引き上げたら如何? どうせ斯んな風にしてゐる位ひなら……」
「云ふのは、たゞ面倒だから止めてゐるが俺は何もお前が相像してゐるやうな悪い生活を此処に来てしてゐるわけではないよ。」
「だからさ、吾家で凧でも拵えてゐれば好いぢやないの。折角思ひたつた仕事なのに?」
 彼女は、私の想ひなどには夢にも気づかずに強ひて気嫌を直して、そんなことをすゝめた。
「余外《よけい》なことを云はないで呉れ。」と私は、弱々しく歎願すると、にわかに悲し気に頭をかゝえて其処に打ち倒れてしまつた。まつたく私は、吾家にゐると母や妻が空しく凧の製作を私にすゝめ、内心の私の火よりも強い凧の製作慾に惨めな幻滅を覚えさせられることの苦痛から逃れるだけの目的で此方に引き移つたのである。尤も私は、斯んな風にでもしたら凧のことなどは他易く思ひ切れて、創作にも取りかゝれるかも知れないといふ望みも抱いて来たのであつた。
 独りになつて見ると私の凧に対する憧憬は、何のはゞかる者もなくなつた為か、吾家に居る時の状態とは全く変つて、露はに身を焦し始めてゐた。私は、部屋に居ても寸分の間も凝つとしてはゐられなかつた。腕を組み首をかしげて、檻の中の動物のやうに苛々と歩き廻つた。暫く遠ざかつてゐた洋酒に私は再び慣れて、一回りしては一杯|宛《づつ》傾けた。壜を片手にして私は回り灯籠の影絵のやうにグル/\と堂々回りをした。床に打ち倒れて、ボーフラのやうに身を悶えた。
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