今度は帰つて行くのよ。時々妾達は斯うして向き合つて夜の更けるのも忘れるんだが、爺やはこれが何よりも楽しみなのよ。」
 私は、空しく壁を眺めて、涙に似たものを湛へてゐた。(あゝ、あの絵もそんな遠い国に行つてしまつたのか、俺は何処まで独りであの凧を追はなければならないのだらう、あゝ、あの主人の眼が懐しい。)
「それでも兄さんは、仕事を探すと云つて出歩いてゐるんだが、おそらくA町あたりの| obscene house《ナンバー・ナイン》 あたりにもぐつてゐるに違ひない、と妾は思ふんだが……」
「さうだ、あの辺の小料理屋は悉くナンバー・ナインの類ひらしい、A町だ、昔の吾家のあたりだ。だが、青野はあの辺には居ない。」
 私は、漠然と青野の行衛を考へたり、握つてゐるメガホンを覗いて、どうしたならば自分の意図を源爺に通じることが出来るだらうかなどといふことに空しく思案を傾けてゐた。
「ぢや、東京かも知れないね。」
「何のために行くのかと訊かれても返答の仕様もないので僕は、吾家の者にこゝに来ることは云はないでゐるんだが、吾家では僕が悪い遊びにでも行くのかと疑つてゐる。」
「あんたと同じやうなことを兄さんも何処かで演じてゐるのかも知れないね。」
「えツ、何が? どうして!」と私は、何だか訳がわからぬ気がして問ひ返したが、彼女は、私の言葉は耳にも入らぬやうに、変らぬおだやかな調子で呟いてゐた。
「あゝいふ種類の熱情家が、財産を失ふといふことは悲惨ね。」
「あゝ、俺はあいつに遇ひたい!」と私も私で独り言のやうな嘆息を洩した。
「兄さんは、顔は、妾の知らないお母さんにそつくりなさうだけれど、心はお父さんそつくりなのよ。」
「さうかしら……」と私は、わけもなく声を震はせて叫んだ。
「そして妾はね、兄さんとは反対で顔はお父さん似――」と云つた冬子の声が、私の耳に奇妙な新しさを持つて響いた。彼女の言葉は、私の心持を洞察しきつてゐるかのやうに響いて、私に、安んじて依頼せしめるやうな朗らかさを感じさせた。「お父さんの顔を思ひ出したかつたら、好く私の顔を見ると好いんだ……」
「…………」
 何かに打たれたやうにぴりツとした私の眼の先に、
「ほうら!」
 さう云ひながら、戯れるやうに眼を視張つて彼女が顔を突き出した。凝つと私はその眼を視詰めて、
「さうだ! 俺は今迄気がつかなかつた。」と云ひ放つた。……
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