(だが、主人の眼とは違ふ。主人の眼は俺にこのやうな静けさは与へて呉れない?)
 冬子は、私に示したことは忘れたかのやうに、いつまでも、無心気に、私の眼近かで視張つてゐた。私は、その視線に、鋭く、小気味好く、快く、突き刺された。――耳を澄すと、蹄の音がした。爽やかな鬣が私の頬をさら/\と打ち撫でた。風笛のやうに鳴る口笛を感じた。私は、巧妙な騎手になつて、風を切つて駿馬を飛ばしてゐた。夕靄の中に光つた、彼女の眼があつた。――私は、「ボーフラ」の姿が、次第に近づいて来るのを、凝つと鬣の蔭から打ち仰いで、微笑を感じた。
「さう思はない?」
「…………」
 私は、はつきりと展開されてゐる私のあの幻の中だけに生きた。私の心は、五体を鞭にして、唇を鳴し、馬を駆つて、まつしぐらに凧を追つてゐた。――私は、一寸眼近かに冬子の瞳に自分の視線を吸ひとられた刹那に、極度の痴酔に感極まり、其処に源爺のゐることも忘れて、奇声を放つと同時に彼女の頬を両手の平でぴつたりとはさんだ。……。

          *

 同じやうな夜ばかりが私に繰り返されてゐたのだ。だから幾部分かのこの章の動詞は寧ろ Present Naration に綴るべきが、現在の私の心域に照しても順当なのだが、今は青野兄弟も共々に面会の許されない或る脳病院に入院してゐるのでもある故、一先づ過去のかたちに統一して叙したのである。[#地から1字上げ](昭和二年一月)



底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論 第四十二巻第三号」中央公論社
   1927(昭和2)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
2006年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全22ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング