此方からはなるべく訪れないやうにしてゐる、今では他人と言葉を交へるやうな日は滅多にない、源爺やだけが昔ながらにたつた一人残つてゐる、そして妾達の世話をしてゐて呉れる、それは――と彼女が、続けやうとした時に、私は突然膝を打つて歓喜の声を挙げた。
「源爺やが居る! そんなら僕は今直ぐに訊きたいことがあるんだ!」
冬子は、私の様子には気附かないやうに言葉を続けてゐた。「妾達は、爺やに給料を払ふどころかあべこべに、世話になつてゐる、この家だつて……」
「起したつて好いだらう、何処に寝てゐるの? 僕は会ひたい!」
この家だつて彼の出費で建築されたんだ、ひよつとすると彼は少しばかりの財産を妾達に譲らうとしてゐるらしいが……などといふことを冬子は続けてゐたが、今にも私が部屋から飛び出さうとした時に、彼女は静かに私をおしとゞめた。「会つたつて駄目よ。あれも頭が妙になつてゐて妾と兄さんの顔だけしか覚えてゐないのよ。そして、酷い聾者になつてゐるの。」
さう云つて彼女は、私も時々それに眼をつけて何に用ひるものなんだらうか? と思つたが、訊ねる隙もなかつた手製らしいメガホンを取りあげると、扉をあけて、「オーーツ」と鳴らした。
「爺やと話すんなら、あんたもこれで云はなければならないのよ。だけど、これを使つたつて言葉は通じないのよ。たゞ合図だけのことよ。私達の間には、いつの間にか十通りばかりの合図の種類が出来てしまつて、それで一通りの用事は足りてゐる。あれは、字は何も知らない。」
私は、頭をかゝえてドンと椅子に落ちた。
オーツといふのが呼声の代りだと見えて、間もなく源爺は直ぐ隣室から現れて冬子の傍に来ると、昔のまゝな円満な微笑を湛えて、主人の足もとに坐つてゐた。
「お前は達者で好かつたね。何よりも先に、僕はお前に訊ねたいことがあるんだよ。お前ならば屹度知つてゐるんだ。」
私は、懐しさの情に溢れて、冬子の云つたことなどは忘れて、思はずしつかりと彼の手を握ると、烈しく打ち振つた。
「駄目よ、何と云つたつて。」と冬子は、寂しく笑ひながら徒らにメガホンを私に渡した。源爺は、にこ/\と笑ひながら、自分で持つて来た盃をとり出して、有りがたさうにいち/\戴きながら傾けてゐた。向方で独りで今頃まで晩酌をしてゐたらしい私達のとは別な酒を其処に運んで楽しさうに飲んでゐた。
「もう一度若しそれを吹くと、
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