余話
秘められた箱
牧野信一

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(例)稍※[#二の字点、1−2−22]
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 厳格らしい母だつた。
 幼時余は、母に、『論語』を学び、二宮尊徳の修身を聴講し、『ナショナル・りいどる』巻の一に依つて英語を手ほどかれ、『和訳すゐんとん万国史』を講義された。それらの記憶は、ひどく曖昧である。『論語』では、母のそれでは、「友アリ遠方ヨリ来ル」云々に就いての解釈を朧げに憶えてゐる。『ナショナル・りいどる』では、母がそれを購ふ時「なしよなる・りいどるの巻の一……」と云つたので、何やら余は、ハッとしたことを憶えてゐる。「巻の一」といふ響きが、余の姓名のそれと通じた気で、妙なハニカミを感じて、それとなく母の袂を握つたことを憶えてゐる。『すゐんとん万国史』は、余が稍※[#二の字点、1−2−22]長じた頃だつたが、ただその書物の装幀が、灰色に太き金文字を印したる表紙を憶えてゐるのみである。おそらくこれは明治初年版の書物に相違ない。
 これに依つても、当時余が、いかに不熱心な母の弟子であつたか、といふことが察せられてならない。当年、海外にあつた余の父から月々送らるる様々な玩具、衣類、絵本の類などが今もなほ余の記憶に新しく甦るにも拘はらず、いかなれば母の教訓のみが、かくも朧げに記憶の向ふに薄れてゐるか――と、思ふと、われながら不孝の悪態を愧ぢずには居られない。
「芝居」の類は、観ることなく、余は中学校を終へた。「小説」の存在を知らずに成長してしまつた。
 薄暗い納戸の隅の、母の二つの書箱には、どんな書物が蓄へられてゐるのか?――常々それが、余の好奇心をそそつてゐた。或る時余は、母にこの質問を放つて、思はず彼女の息を塞らせたことがあつた。――なぜ余が、かかる質問を発したか、と云ふと、それは母が、夜々、余が寝静まつた後に、その箪笥のやうな恰好の黒い書箱から、一二冊の書物を取り出しては、ランプの下で頁を繰り、或る時は涙を浮べ、或る時は、微笑を漂はせ、または溜息をつき、余念もなく読書してゐる姿を、往々余は、夜着の間から半眼を見開く時に見て、不審を抱いたからである。――朝になると、その書物はいつの間にか姿を消して、書箱の観
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