音開きには堅く錠が下ろされ、母の机上には、不景気な『ナショナル・りいどる』と、灰色の『すゐんとん万国史』等が悄然と積み重ねてあるばかりで、徒らに余の退屈をそそつたからである。
余が、その質問を発した時、彼女がなんと答へたか、忘れてしまつたが、以来余は、余の枕辺で読書する母の姿に接することが無くなつたので、一層余は好奇心を助長せしめられたのであつた。
母の旅行中のことだつた。或る日余は、盗賊の心となつて、鍵を盗み、母の黒い書箱の前に忍んだのである。――他人の整理物を掻き乱すことの、留守居中の持主に対するあの痛々しい悲しみは、さやうに余の如き不道徳を行つたことのある少数の同志には容易に、理解して貰へるだらう。……余は、馴れぬ手際で、乱暴にガチガチと錠前をねぢつた。――それで、好く、開けられたものだつたが。
雑誌『文芸倶楽部』『新小説』などが、恰もそれぞれ貴重な単行本でもあるが如く、背を並べて、巻を追ひ、汚れもなく二側に羅列されてあるのも眼についた。書籍は、背文字のない雑誌形のものが過半数で、そこには貸本屋のそれのやうに一々自筆で、題名が記されてあつた。――余は、挿絵のありさうな書物を探した。
『風流線』それは、その時、その色彩りの挿画は、どんなに余の胸を怪しく震はせたことだつたか! 秘められた箱の中の、最初の不思議な書物だつた。泉鏡花といふ名前を初めて知つた由来である。鏡花の初期の作は、後になつて大方その箱の中から取り出して読んだ。寡読家の余が『たけくらべ』を読んだのも、『不言不語』を読んだのも、この文庫のたまものである。『金色夜叉』は、探したが見つからなかつた。
なんだか、文庫の錠前の工合が悪くなつたやうだ――旅から帰つて来た母が、かう誰かに零してゐるのを耳にして、余は、秘かに慄然としたことを憶えてゐる。続いて送られてゐた『ニューヨーク・ヘラルド』の日曜絵附録に、桜の木のジョージ・ワシントンが現れた時、余は、母に秘かに赤面したが、なんとしても白状出来なかつた。――だが余は、桜の木のジョージには少しも感心してゐなかつた。あんなことなら誰にだつて白状出来る――そんな不平を感じた。
二つの文庫については、余の東京遊学中、帰郷したある時、もう大胆に(なぜなら余は既に堂々たる文科大学生だつたから)、母に訊ねたところが、彼女は、ただ寂しげな微笑を浮べただけで、余の異様に
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