であつたが、俺はその間に唐松へ走つて山駕籠を伴れて来ようとした。
「唐松までは、一里もあるぢやないか。そんなに長い間を、俺ひとりが斯んなに苦しんで、斯んなところに独りで寝ては居られない。」
「もう、そつちを向いても好いかね?」
 ――三四時間手当をつづけて休息したら、どうにか動きはつくやうになるであらうから、それまで看病を頼むと第八は泣くのであつた。
 凡そ三十分間毎に、俺は氷嚢の端をつまんで沢へ降らなければならなかつた。
「唐松まで君の肩を借りて、今夜は唐松泊りとするんだね。」
 第八は辛うじて立ちあがると俺の杖と肩をたよりにして出発した。降り坂になると第八は苦痛に堪へず俺の登山袋の上にのしかかつた。小包は、しかし木製の箱だから安心だ! と俺は思つた。
 平坦な道になると第八は稍々苦痛から救はれて、そろそろと太吉の蔭口をききはじめた。そして、もう今宵あたりは久良は親父に引つぱられて狐岡に来てゐるだらう、さうと決まればあの女だつて茶屋の華やかさに汚れて、あんな目ツカチのことなどは即座に忘れるに相違ない、一層唐松で駕籠を雇つた上、一気に花の山を越さうか――などと好い気なことを呟いた。


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