、仕事にとりかかつた。右の眼は稍々悲し気にうつむき、余念なく人生をあきらめてゐるかのやうであつたが、左のはぎらりと飛び出して、俺の方を睨んでゐた。このために彼は、つい多くの人達の感情を害した。友達は彼にいつも高価品を購ふことをすすめるのだが、ひと月に少くとも一度ぐらゐは破壊の憂目を見るので、とても買ひ切れぬと彼はこぼした。
彼は四十歳だが、結婚の経験を持たなかつた。
微かな鼾きがするので、見ると、彼は草鞋の端をつまんだまま、うつとりと居眠りであつた。義眼の眼蓋は主人が眠つても、笑つても決してしまらなかつたから、見る者は屡々本尊の心的状態を見誤つた。――笑ふ――と云へば、彼はわらふ場合には目蓋を閉ぢるのが癖である。然し、いつにも俺は彼の笑ひ声に接した験しもないのである。
太吉が、その時突然蟇のやうに仰向くと、突拍子もない大きなクシヤミを発した。これがはじまると、十も二十も連続するのが彼の癖だつた。
炭をついでゐた俺は、
「だから、窓を閉めれば好いのに……」
と慌てて、立ちあがりながら着てゐる毛布を貸さうとした。彼は、はつはつはつ……とクシヤミの発作に駆られて肩をすぼめてゆくのだ
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