前えは、だけど、台の茶屋からほんたうに金をとつたのか?」
 久良の顔は蒼かつた。炎えついた竃の火が煙りを吐いて、久良の姿にからまつた。父親は、白く輝き、眼眦の鋭い久良の容貌に見惚れてゐた。
「お久良、無理を云ふな――お前えが飲ませて呉れる酒なんだ。」
「おらの知るこつちやないげに! おら、茶屋奉公づら真平だよ。」
「ふんなら、俺らは何うなるといふんだ。約束をしてしまつて、金はそつくり畑に注いでしまひ……」
「畑に注いで、また畑から飲代をしぼり出して……か、堂々回りも好い加減にするが好いぞや、おらは、もう太吉と夫婦約束したんぢやよ。」
「目ツカチづれの約束なんて……」
「目ツカチ目ツカチと云つて貰ふまいぞ。」
「飛びくり目玉の、でんぐり目だ。野郎達は金がいくらあるといふんだ。」
「お前えは太吉の立派な目玉を知らないんだね。世の中は進んでゐるんぢやぞよ――ほんものと寸分違はぬ目玉は直ぐにも買へるんぢやい。太吉は立派な聟だあよ。目さへ這入れば、台の運送屋に務める手筈になつてゐるだよ。」
「立派な目とやらを見せて貰はうけえ。飛びくり目玉は……」
「あれは普段のぢやよ……」
 久良は煙りに咽んで、顔を覆うた。義眼にもいろいろな区別があることを、老父は決してうなづかなかつた。
「てんま[#「てんま」に傍点]にや乗りたくねえもんだ。太吉の目玉が平べつたく凹んで、月給とりになつたら俺あ拝んでやら……」
「悪たれ吐くと、月給とつても金、払つてやらんぞ。」
「立派な口を利いたのを忘れんな、アマ!」
「太吉を見違へて、後悔せぬが好いよ。」
「ワツハツハ……」
 老父は扉を蹴つて立去つた。
 太吉は窓に突つ伏してゐた。俺は腕組の中に首垂れて、懐ろに息を吐いてゐた。不運となると、何も彼もいちどきに行詰るものだ! と、俺はこの頃の成行きに驚かされた。間もなく台の茶屋の亭主が、老父のよりも激しい悪たれ口を聞いて、久良を拉しに来るであらう。水車小屋の差押人が飛び込んで来るであらう。俺は、彼等に弁明の言葉を持ち合さぬのだ。太吉は、抗弁の舌に恵まれてゐるが、目玉をつけてゐないと彼は他愛もなく意気地を失つて口が利けなかつた。彼等は太吉の弱みを知つて、事毎に、飛びくり目玉! と罵つて、無下に彼を凹ませた。
 窓にもたれてゐた太吉は、またクシヤミの発作に駆られはじめてゐた。然し彼はもう、その反動に少しも逆らふことなしに、くしやんくしやんと、ハネツルベのやうに悠々と胴仲を折り曲げては、柿の葉がくるくると舞つてゐる窓の外へ上半身を乗り出してゐた。
「あんな喧嘩をしては帰るわけにもゆくまいね……」
 俺が久良の上を案ずると、太吉も久良も俺が町から戻るまでは、到底二人で夜を共にすることは適はぬと萎れるだけだつた。俺が、屋根裏の寝室へ引きあげようとすると、久良は弁当をつくり終るまで待つて呉れと慌てるのであつた。
 俺には、寧ろ太吉と久良の感情の状態が察知し難かつた。
 いつものやうに久良は俺に送られて、風の吹きまくる畦道へ出た。翌朝は、雨でも出発することを更に俺は久良に約して橋のたもとで見送つた。水の上を巻いて来る風の音に交つて、太吉のクシヤミの響きが未だ続いてゐた。小屋のラムプは消えてゐたが、窓の中で餅を搗くやうな激しいお辞儀を繰り返してゐた太吉の姿が、白けた夜気の中にうつツてゐた。

     四

 町で用達を済すと、もう夜だつたので郵便局へは廻れなかつた。どこに泊らうかしら? と俺は、停車場のベンチで目をつむつた。台の宿を廻らずに、俺は山径ばかりを一気に駆け抜けたので半分の道程で町に着き、幸ひ天気は麗らかだつた。――海辺に旅人宿をさがした。水筒には、久良が詰めた酒がそのまま口もつけずに重かつた。
 沖の潮鳴りが高かつた。濤声が激しく雨戸を打ち、やがて雨だつた。俺の眠りは、山村も海辺も容易かつた。
 郵便局から小箱を抱へて走り出ると、不図鍋川第八に出遇つた。台の茶屋の亭主なのだ。俺が顔を反向けようとすると、
「これから山へお帰りかね。恰度好いところだから伴れにならうぢやないか。」
 と、彼は珍らしく愛想が好かつた。
「酒代は幾ら溜つてゐたかね。今、半分だけ払つて……」
 太吉が、久良のいきさつで彼の店へ赴き、自暴的に飲んだ酒代が溜つて、かねがね第八は居催足だつた。
「お前さんの責任ぢやあるまいし、まあ、そんな心配は無用としておかうよ、今日のところだけは……」
「彼が払へなかつたのは僕の責任なのさ。君も御承知の通り暫く僕は彼に給料が渡せなかつたのだからね。」
「お久良が、わしの店に来ることになつたら遊びに来て呉れるかね。」
「久良はもう太吉と結婚してゐるんぢやないか、給料の代りにあの水車小屋を俺は二人に譲り渡して、間もなく東京へ戻るんだ。」
 北山駅で俺達は汽車を降りた。こ
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング